散歩をしていると「国威宣揚」と書かれた石碑を見つけた。普通こういうのには解説があるものなのに、立て札もなくそこにたたずんでいる。一体何者なんだろう。
調べて見えてきたのは、それぞれ違った余生をけなげにすごしている彼らの姿だった。
街かどの異物
慣れた場所を歩くとき、いつもと一本ずれた道を選ぶのが好きだ。曲がった先で変なものを見つけると、自分だけの秘密基地を見つけたような少年時代に戻った気持ちになる。
ある日、いつも歩いている道をなんとなく左に曲がった。思わず頭の中の少年が歓声を上げた。
あまりに自然に違和感が立っている。思わず歩調が速くなった。
こういうものには解説の看板がつきものだ。でも、見渡しても目に入るのは自転車とゴミ回収のお知らせだけ。ほほう、これは謎の香りがするぞ。
もうちょっと詳しく見てみよう。
見覚えのない言葉がちらほら。スマホで調べてみると、なるほど見えてきた。内容からするにこういうことか。
太平洋戦争開戦日の祝日(=大詔奉載記念日)を記念して、1943年(=昭和18年)に町内会(=桃園子宝会)がこの碑を建立した。
1943年は太平洋戦争のちょうど真っ最中だ。つまり、住民の戦意を上げるために町内会が建てたのがこの石碑ということになる。
つまり、これは「戦争の跡」だ。
慰霊碑や郷土資料館の展示など、戦争の跡は探せば意外と見つかるものだ。あえて残しておくことで、「ここで実際に戦争があったんだ」と記憶が伝わり、次の代へとつながっていく。
こんな身近な場所にもあったとは。
ところで、一つわからないところがある。後ろにあるボルトはなんだろう。
足をかけて登るのにちょうどよさそうなとっかかりだ。少年時代の自分がうずく。思わず足がぴくりと動く。と、「別の理由があるんでしょ」と内なる声が聞こえた。止まる足。悲しいかな、こうやって人は大人になっていくのだ。
近くにも国威宣揚碑があるらしい
ボルトの謎が気になる。こういうときに頼るべきは他の事例だ。他に国威宣揚の石碑はあるのかな。調べてみるとあっけなく見つかった。しかも場所はちょうど2キロ先だ。
さっそく行ってみよう。
この神社、立派な人生を全うした祖父が「ここにした願いは叶う」と言っていたのでオススメだ。あと実は東京の三大鳥居だったりめずらしい昆虫がいたりと知る人ぞ知る名所だったりする。
先ほどまで歩いていた住宅地とは違ったおごそかさに思わず歩幅が小さくなっていく。
柱を踏まないよう足元に気をつけながら門をくぐると、右手にやつはいた。
同じ漢字だ。でも、こちらはどこか「感じ」が違う。とかつまらないことを言うと怒られそうな迫力がある。
具体的には、現役というか「生きている」感じがする。
うまく言葉にできず思わず天を仰いだ。目線が上がった先に答えがあった。
天をかきまぜるかのように誇らしげに立ったポールがそこにあった。そういうことだったのか。
国威宣揚碑の正体は「国旗掲揚塔」だった。そして謎の金具はポールを固定するためのものだったのだ。
他の国威宣揚碑も見てみよう
二か所の国威宣揚碑と出会うことができた。となると気になってくるのが他の国威宣揚碑だ。他の仲間はどのようにすごしているんだろう。ネットの情報によると各地に残っていて、東京だけでも40か所ぐらいあるとか。
こうして国威宣揚碑に会いに行く散歩が始まった。気分は家庭訪問中の先生だ。元気にしてますか。お変わりないですか。
歩いてみてわかったのだが、それぞれ違ったすごしかたをしていてなかなかおもしろい。
国威宣揚碑、深いぞ。一個一個見せていきたい思いはあるが日が暮れてしまうので、ここからは4パターンの「余生のすごしかた」にわけて国威宣揚碑を紹介していこう。
余生1 ゴミ捨ての「旗」を掲揚する
ここで最初に見つけた国威宣揚碑を、もう一度見てほしい。
別角度で見てみよう。
かつて「国旗」を掲げるために町内会が建てた国威宣揚碑は、まさかの「ごみ収集」の旗を掲げる場所として使われていた。しかも使っているのは町内会というまさかの縁だ。
定年後に再雇用されて生き生きと働いていた数学の先生を思い出した。
しかも、この余生を送っている国威宣揚碑は一つではなかった。
ちなみにこのパターンは中野区以外では見つけられなかった。
国威宣揚碑を見るに、中野では歳を取っても活躍する社会が整備されている。そういえば、僕と再雇用の先生が通っていた学校も中野区だった。
定年後に中野に住むの、ありだな。
余生2 かくれんぼする国威宣揚
二つ目の余生の送りかたは、「かくれんぼしてすごす」だ。
こちらの国威宣揚碑を見てほしい。
どこにいるかわかるだろうか。正解はこちら。
この国威宣揚碑を見ていて、子どものころ木の陰に隠れて息をひそめた思い出がよみがえってきた。大人になって本気でやってもそれはそれで楽しそう。
そう思って調べると、何百人もが温泉街に集まってかくれんぼする「全日本かくれんぼ大会」なるものを見つけた。
世の中はまだまだおもしろいものが眠ってる。仮装して参加する人が多いらしいので、街角の国威宣揚碑の格好をして出ようか。
そんなことを考えながらHPを見ていると、すでに太陽の塔の仮装をして参加した人がいた。勝てない……!
さて、かくれんぼがさらにうまい国威宣揚碑があったのでそちらを紹介したい。
ぴょこんと頭が出ているのがわかるだろうか。横には木が生えていてカモフラージュはバッチリだ。
では、彼らはなぜ隠れているのだろう。
「国威宣揚」というのは「国家の威光を示す」という意味だ。この言葉からして、戦争の終わりとともに無用の存在となったのは簡単に想像できる。それどころか、価値観が180°変わった戦後の日本にとって隠したい過去のおもかげでもあったのだ。
その結果、彼らは人目に立つこともなく隠れ続けている。ずっと。
余生3 戦争の記憶として生きる
隠れているのではなく、堂々と「スポットライト」が当たっている国威宣揚碑もあった。
ここは国立駅のロータリーだ。この道路を渡らないといけないのだが、ここは日本には数少ない「ラウンドアバウト(環状交差点)」になっていて、絶え間なく時計まわりに車がぐーるぐる回っている。「スーパーマリオブラザーズ」で火の棒が回っているステージを思い出した。ここを進むためには絶妙なタイミングでダッシュボタンを押さないといけない。
さて、タイミングをぬって小島に着いた。出迎えてくれたのは。
ラガーマンのような力強さだ。ただよく見るとヒビが入り補修されたあとが残っている。ん? 補修されているってことは今もしっかり管理されているってことか。
では誰が管理しているんだろう。横を見渡すと、答えが見つかった。
国立市では、わたしたちが二度と戦争の過ちを犯さぬように、平和を願う気持ちからこの銘板を設置するものです。
管理しているのは自治体だった。この国威宣揚碑は「戦争の歴史資料」としてあえて保存されていたのだ。
同じ国威宣揚碑なのにこうも待遇が違う。これもまた人生。
余生4 「擬態」して生き残る
最後に紹介するのは、かくれんぼどころじゃなく自らの存在すらを消して「擬態」して生き残る国威宣揚碑だ。
擬態先は公園の一角によくある「ブロック」だ。
知識がないと「公園の飾りかな」ぐらいにしか思わないだろう。でも、今ならそこに書かれていたであろう四文字がはっきりと予想できる。そして実際に国威宣揚と書かれていたらしい。
同じような「石のブロック」は東京の都心にも見つかった。
こちらは文字が完全に消えている。情報もないので何が書かれていたか、正確にはわからない。しかし手がかりはある。裏側にはポールを固定していたであろう金具の跡があり、側面には1940年(紀元二千六百年)に建立と書いてあった。戦時中に作られた国旗掲揚塔なのは間違いない。
80年以上前にこの石が設置され、かつて元気に国旗をたなびかせていたと気づく人は誰もいない。それでも痕跡はここに残っているのだ。
実は消えつつある国威宣揚碑
回っていて気づいたことがあった。それは「国威宣揚碑」が今でも消えつつあるということだ。今回20か所ほど回ったのだが、そのうち二つが消えていた。
普段住んでいて、「戦争の跡」をはっきりと見ることはほとんどない。そのため各地にまだ残っている国威宣揚碑は貴重な存在なのは間違いない。しかし、そのほとんどが保護されていないので消えていってしまう一方だ。
どうか、国立駅のような余生を送る国威宣揚碑が増えますように。
ネットサーフィンと散歩で見つけた都内の国威宣揚碑をプロットしてみたのでどうぞ!