杉並・善福寺川にある銅像が人々の「よりどころ」になっていた

いつもランニングをしている道がある。そこで目に入る姿があった。手元にはいつも飴を持っていて、通りすぎる人に笑顔を振りまいている「銅像」だ。その姿をながめていると、自然と心がほぐれ踏みこむ足に力が入っていく。飴を渡す人の気持ち、わかるぞ。

ある日異変が起きた。食べ物が増えだしたのだ。軽いひなあられから始まり、果てには板チョコ丸々1枚まで。おやつとして食べると太る量までになっていた。

今回は一人の銅像がみんなのよりどころになっていった話です。

 

気になる銅像

杉並区をつっきるように流れる善福寺川は区民のいやしスポットだ。子どもは善福寺川の交通公園に集い、大人は桜を見に、犬は散歩に、カモは餌を探しに川に集う。

そんな善福寺川にイチオシの隠れスポットがある。それが「八重桜のじゅうたん」だ。

弘前よりもずっと規模は小さいが密度は負けていない。

そして、じゅうたんの道に一人の「子ども」がいる。

今回の主人公だ。

毎週通っていて気づいたことがあった。手元に飴を持っている。

しかも、よく見ると飴の味が毎回変わっているではないか。

どうやら誰かが毎週「あめちゃんあげる」って渡しているようだ。

気づいたら、以前なら休んでいたような天気でも毎週ランニングに行くようになった。なぜなら飴の変化を見逃したくないから。

台座にある像の名前は「空を」。そこで、「ソラ」と名をつけて見守っていくことにした。

 

それから、ソラは色々な姿を見せてくれた。

あるときはお小遣いをもらっていたり。

子どもにお小遣いを渡したがるおばあちゃんの気持ちが初めてわかった。

あるときはプリペイドカードを持っていたり。

さすがにあせった。

放っておくわけにもいかず「実績:警察に忘れ物を届ける」を解除した。

実際に行ってわかったことがある。書類に「令和○年」と書くところがあり、何年かわからずあせってお巡りさんに苦笑いされた。ということで、交番に行く用事のある人は年号を調べてから行くことをオススメする。

 

ある日、そんなソラに異変が起きた。

 

ソラの異変

いつものようにランニングしながら川に足を運ぶ。ソラはどうしてるかな。

思わず足が止まった。疲れたからではない。ソラの手元がいつもと違う。

カラフルなポップコーン……?

なんだろう? 一つ、思い当たる食べものがあった。

スマホを見る。

画面に出たのは「2020年3月7日」の文字。やっぱりそうだ。

これ、ひなあられだ!

ソラは飴を楽しむだけじゃなく、ひな祭りのお祝いもしていたのだ。

ひな祭りの存在、すっかり忘れてた。

忙しくすごしていると気づいたら季節が変わっていることがある。そうだ、意識して季節のイベントを楽しんで移り変わりを感じることで、毎日の大切さをかみしめることができる。

その日のランニングは心なしか走っていていつもより温かかった。

 

しかし、ほっこりは次の週、びっくりに変わった。

バームクーヘンどーん!

ひな祭りは終わったとばかりにバームクーヘンが乗っかっている。季節感あふれるほのかな味わいのひなあられは、パンチあるバターの風味が効いたドイツからの刺客に上書きされていた。

それはそれでおいしいからいいけどね。みんな違ってみんなおいしい。

よく見るとガムもあった。バームクーヘンの脂っぽさをリセットできて良きかな。

洋菓子の流れは続く。今度は4月の終わりのことだ。

ソメイヨシノが散り八重桜がピークを迎えるころ、どんな花にも負けない鮮やかな色が目に飛び込んできた。

今度は板チョコ1枚ときた。

全部食べたら夕食が入らなくなるんじゃないかと心配になるやつだ。いや、でもお花見しながら好きなものを食べるのは何より幸せだからそれならありか。

気づいたら親の目線になっている。食べるのはいいけど、ほどほどにね。

 

増える食べ物

5月。ひな祭りに続いて子どもの日がやってきた。この時期の善福寺川では、川だけでなく空でも鯉が泳ぎ始める。滝を登りきった鯉が竜になるという伝説をもとに鯉のぼりは生まれたらしい。とすると、川の上に鯉のぼりをかけるのはある意味正しい姿なのか。

そんなことを考えながら通りすぎる。走っていると普段考えもしないことを思いつくから楽しい。

この向きだと洗濯ものっぽく見えてそれはそれで好き。

さて、ソラはどうしているかな。

かしわ餅ときたか! 和菓子が復活だ。

ソラも子どもの日をしっかり楽しんでいた。最初に食べるときって、かしわの葉っぱが食べられるのか迷う人が多いと思う。その葛藤も含めて楽しんでほしい。

 

そして次の週。ソラと食べ物は新たな局面を迎えることとなる。

勢ぞろい 飴に月餅 柿の種!

ぱっと見ると地味なように見える。が、よく考えてみてほしい。皆さんはおやつを食べたいとき、どのようなお菓子の「組み合わせ」を選ぶだろうか。多くの人は、「甘いもの」「しょっぱいもの」の両方を選ぶのではないだろうか。

今回、初めてこの二つがそろったのだ。

あんこがずっしりつまった和菓子を食べ、その次はしょっぱい柿の種をほおばる。そして次に甘いもの。次にしょっぱいもの。柿の種の参戦により幸せのループが完成した。

 

そして、これを最後にソラは再び飴だけの生活になっていった。

飴も休みがちになり、種類もバラバラに。

やがて飴もなくなり、ソラは普通の日常に戻っていった。

何も持っていないソラの写真がフォルダにたまっていく。

 

異変の種明かし

さて、ではなぜこの時期だけソラはたくさん食べ物をもらうようになったのだろう。実は、はっきりとした理由がある。

一部の人は察しがついていると思う。

それは、「コロナ禍」だ。

ソラがひなあられを食べていたのは「2020年の3月」だ。ちょうど感染者が増え始め、政府が緊急事態宣言を検討し始めたころとかぶっている。

あのとき、買いものすら自由にできなくなり、日本全体に重い閉塞感が漂うこととなった。

お花見も制限され、歩きながら楽しむこととなった。屋台のたこ焼きが恋しい。

しかし、唯一外で許されたことがあった。それが散歩や運動だ。

気を紛らわせようと公園に向かった人々はそこで「ソラ」と出会う。

第一波のときはコロナ疲れもまだなく、「耐えて乗り越えてやろう」という不思議な一体感があった。そんな思いの向かった先がソラへの食べ物だったのだ。

そして第一波の終わりとともにソラも普通の存在に戻っていった。

そう考えると、お菓子を持っていない姿も平穏を感じられてアリだ。

 

日常を楽しむソラ

あれから2年。2022年の後半に入りようやくコロナの終わりが見えてきたころ、ずっと何もなかったソラに変化が訪れた。

9月のある日、横を通るといつもよりも楽しそうなソラがいた。

いつもより笑顔が輝いて見える。見えるよね?

ブレスレットをつけていた!

おしゃれを楽しむソラ。子どもにとってのビーズは、大人にとっての宝石と同じ価値がある。こういう形の違うビーズもどこか懐かしい。

 

それから、いろいろな遊びを楽んでいるソラの姿が見られるようになった。今週はなにをしてるかな。

ある日は口に実をくわえて遊んでいたり、

虫取りの準備をしているときもあった。たしかに善福寺川では虫を探している子どもをよく目にする。

こうしてソラは、みんなのよりどころになる特別な存在から「普通の子」に戻った。それでいい。ぜひ存分に楽しんでほしい。

 

またね、ソラ

私事だが、今年(2023年)の1月から新居に移り一人暮らしを始めた。ランニングコースは善福寺川より南の神田川となった。

ソラともお別れだ。

慣れない引っ越しから1週間後、神田川を走ってみることにした。

足を動かしていて浮かぶのはソラの笑顔だ。元気にしているかな。ちょっと帰りたくなってきた。

始めて20分ぐらいたっただろうか。ふと視線を感じた。顔を左に向けると、足が急ブレーキをかけて止まった。

どこか既視感のある外見だ。

くりくりした目に笑顔の口。そして題名は「川は」。ソラの正式名称「空を」と似ている。偶然ではないだろう。

まさかの、引っ越し先でソラのお兄さんと鉢合わせた。

別の日に来たら同じように食べ物を持っていた!

子どもの割にどこか余裕たっぷりの姿を眺めていると思わず姿勢が良くなった。そうだ、慣れない生活でもどんと構えて一つ一つこなしていけばきっと楽しくやれる。自然と心が前を向いた。

これからよろしくね。

戦時中に作られた謎の石碑? 「国威宣揚(こくいせんよう)碑」の余生が興味深い


散歩をしていると「国威宣揚」と書かれた石碑を見つけた。普通こういうのには解説があるものなのに、立て札もなくそこにたたずんでいる。一体何者なんだろう。

調べて見えてきたのは、それぞれ違った余生をけなげにすごしている彼らの姿だった。

 

街かどの異物

慣れた場所を歩くとき、いつもと一本ずれた道を選ぶのが好きだ。曲がった先で変なものを見つけると、自分だけの秘密基地を見つけたような少年時代に戻った気持ちになる。

ある日、いつも歩いている道をなんとなく左に曲がった。思わず頭の中の少年が歓声を上げた。

f:id:tenyard:20211225134701j:plain

謎の石碑がコンチニハ。(中野3丁目)

あまりに自然に違和感が立っている。思わず歩調が速くなった。

f:id:tenyard:20211225134834j:plain

「国威宣揚」ってなんだろう。

こういうものには解説の看板がつきものだ。でも、見渡しても目に入るのは自転車とゴミ回収のお知らせだけ。ほほう、これは謎の香りがするぞ。

もうちょっと詳しく見てみよう。

側面には作られた日付と建てた人が書いてあった。

見覚えのない言葉がちらほら。スマホで調べてみると、なるほど見えてきた。内容からするにこういうことか。

太平洋戦争開戦日の祝日(=大詔奉載記念日)を記念して、1943年(=昭和18年)に町内会(=桃園子宝会)がこの碑を建立した。

1943年は太平洋戦争のちょうど真っ最中だ。つまり、住民の戦意を上げるために町内会が建てたのがこの石碑ということになる。

 

つまり、これは「戦争の跡」だ。

慰霊碑や郷土資料館の展示など、戦争の跡は探せば意外と見つかるものだ。あえて残しておくことで、「ここで実際に戦争があったんだ」と記憶が伝わり、次の代へとつながっていく。

こんな身近な場所にもあったとは。

 

ところで、一つわからないところがある。後ろにあるボルトはなんだろう。

何かを引っかけるために使われていた?

足をかけて登るのにちょうどよさそうなとっかかりだ。少年時代の自分がうずく。思わず足がぴくりと動く。と、「別の理由があるんでしょ」と内なる声が聞こえた。止まる足。悲しいかな、こうやって人は大人になっていくのだ。

 

近くにも国威宣揚碑があるらしい

ボルトの謎が気になる。こういうときに頼るべきは他の事例だ。他に国威宣揚の石碑はあるのかな。調べてみるとあっけなく見つかった。しかも場所はちょうど2キロ先だ。

さっそく行ってみよう。

「親注意」の風車を通りすぎ、

立派な門の神社に着いた。(馬橋稲荷神社)

この神社、立派な人生を全うした祖父が「ここにした願いは叶う」と言っていたのでオススメだ。あと実は東京の三大鳥居だったりめずらしい昆虫がいたりと知る人ぞ知る名所だったりする。

先ほどまで歩いていた住宅地とは違ったおごそかさに思わず歩幅が小さくなっていく。

柱を踏まないよう足元に気をつけながら門をくぐると、右手にやつはいた。

「国威宣揚」の文字を見つけた。

同じ漢字だ。でも、こちらはどこか「感じ」が違う。とかつまらないことを言うと怒られそうな迫力がある。

具体的には、現役というか「生きている」感じがする。

うまく言葉にできず思わず天を仰いだ。目線が上がった先に答えがあった。

そういえばちょうど祝日だったか。

天をかきまぜるかのように誇らしげに立ったポールがそこにあった。そういうことだったのか。

国威宣揚碑の正体は「国旗掲揚塔」だった。そして謎の金具はポールを固定するためのものだったのだ。

 

他の国威宣揚碑も見てみよう

二か所の国威宣揚碑と出会うことができた。となると気になってくるのが他の国威宣揚碑だ。他の仲間はどのようにすごしているんだろう。ネットの情報によると各地に残っていて、東京だけでも40か所ぐらいあるとか。

こうして国威宣揚碑に会いに行く散歩が始まった。気分は家庭訪問中の先生だ。元気にしてますか。お変わりないですか。

歩いてみてわかったのだが、それぞれ違ったすごしかたをしていてなかなかおもしろい。

子どもによじ登られていそうな国威宣揚碑があれば、(深川一丁目児童遊園)

二宮金次郎がつまずきそうなものもあった。歩きスマホの啓発ポスターにこういうのどうでしょう。(大森西4丁目)

当時の姿そのままの国威宣揚碑もあった。木のポールだったのか!(久國神社

国威宣揚碑、深いぞ。一個一個見せていきたい思いはあるが日が暮れてしまうので、ここからは4パターンの「余生のすごしかた」にわけて国威宣揚碑を紹介していこう。

 

余生1 ゴミ捨ての「旗」を掲揚する

ここで最初に見つけた国威宣揚碑を、もう一度見てほしい。

金具の先にひらひらとついているものがある。

別角度で見てみよう。

まさかのゴミ捨て場の「旗」!

かつて「国旗」を掲げるために町内会が建てた国威宣揚碑は、まさかの「ごみ収集」の旗を掲げる場所として使われていた。しかも使っているのは町内会というまさかの縁だ。

定年後に再雇用されて生き生きと働いていた数学の先生を思い出した。

しかも、この余生を送っている国威宣揚碑は一つではなかった。

右側に見覚えのあるオレンジ色が見える。(北野神社西町天神)

やっぱりか! 幅がジャストフィットでこのために建てられたと思うレベルだ。

ちなみにこのパターンは中野区以外では見つけられなかった。

国威宣揚碑を見るに、中野では歳を取っても活躍する社会が整備されている。そういえば、僕と再雇用の先生が通っていた学校も中野区だった。

定年後に中野に住むの、ありだな。

 

余生2 かくれんぼする国威宣揚

二つ目の余生の送りかたは、「かくれんぼしてすごす」だ。

こちらの国威宣揚碑を見てほしい。

今正面に写っています。(打越天神北野神社)

どこにいるかわかるだろうか。正解はこちら。

看板の裏はこうだ。見事に外から見えなくなっている。

この国威宣揚碑を見ていて、子どものころ木の陰に隠れて息をひそめた思い出がよみがえってきた。大人になって本気でやってもそれはそれで楽しそう。

そう思って調べると、何百人もが温泉街に集まってかくれんぼする「全日本かくれんぼ大会」なるものを見つけた。

世の中はまだまだおもしろいものが眠ってる。仮装して参加する人が多いらしいので、街角の国威宣揚碑の格好をして出ようか。

そんなことを考えながらHPを見ていると、すでに太陽の塔の仮装をして参加した人がいた。勝てない……!

 

さて、かくれんぼがさらにうまい国威宣揚碑があったのでそちらを紹介したい。 

こちらも画面中央にいます。(仲町氷川神社

ぴょこんと頭が出ているのがわかるだろうか。横には木が生えていてカモフラージュはバッチリだ。

近づくと立派で思わず声が出た。よく隠れられるな。

では、彼らはなぜ隠れているのだろう。

「国威宣揚」というのは「国家の威光を示す」という意味だ。この言葉からして、戦争の終わりとともに無用の存在となったのは簡単に想像できる。それどころか、価値観が180°変わった戦後の日本にとって隠したい過去のおもかげでもあったのだ。

木立に隠れてやりすごそうとしているのもいた。(白金5丁目)

その結果、彼らは人目に立つこともなく隠れ続けている。ずっと。

 

余生3 戦争の記憶として生きる

隠れているのではなく、堂々と「スポットライト」が当たっている国威宣揚碑もあった。

こちらの「島」に国威宣揚碑があるとか。

ここは国立駅のロータリーだ。この道路を渡らないといけないのだが、ここは日本には数少ない「ラウンドアバウト(環状交差点)」になっていて、絶え間なく時計まわりに車がぐーるぐる回っている。「スーパーマリオブラザーズ」で火の棒が回っているステージを思い出した。ここを進むためには絶妙なタイミングでダッシュボタンを押さないといけない。

さて、タイミングをぬって小島に着いた。出迎えてくれたのは。

重厚感あふれる国威宣揚碑だ!

ラガーマンのような力強さだ。ただよく見るとヒビが入り補修されたあとが残っている。ん? 補修されているってことは今もしっかり管理されているってことか。

では誰が管理しているんだろう。横を見渡すと、答えが見つかった。

横に解説板がある。今までにはないパターンだ。

国立市では、わたしたちが二度と戦争の過ちを犯さぬように、平和を願う気持ちからこの銘板を設置するものです。

国立市教育委員会

管理しているのは自治体だった。この国威宣揚碑は「戦争の歴史資料」としてあえて保存されていたのだ。

平和の石碑のかたわらに残っているものもあった。ぜひそのままでいてほしい。(水稲荷神社)

同じ国威宣揚碑なのにこうも待遇が違う。これもまた人生。

「平和の礎」の横に平和でない光景を見つけた。田中のおじさん……。

 

余生4 「擬態」して生き残る

最後に紹介するのは、かくれんぼどころじゃなく自らの存在すらを消して「擬態」して生き残る国威宣揚碑だ。

擬態先は公園の一角によくある「ブロック」だ。

公園によくある植物の木漏れ日。の手前に何かがいる。(駒繁公園)

 

「ここに四文字を入れなさい」と大喜利の画像に使われそうな見た目だ。

知識がないと「公園の飾りかな」ぐらいにしか思わないだろう。でも、今ならそこに書かれていたであろう四文字がはっきりと予想できる。そして実際に国威宣揚と書かれていたらしい。

同じような「石のブロック」は東京の都心にも見つかった。

東京タワーのすぐそこ、芝公園に佇んでいた。

こちらは文字が完全に消えている。情報もないので何が書かれていたか、正確にはわからない。しかし手がかりはある。裏側にはポールを固定していたであろう金具の跡があり、側面には1940年(紀元二千六百年)に建立と書いてあった。戦時中に作られた国旗掲揚塔なのは間違いない。

奥に見えるのは平和の塔だ。

80年以上前にこの石が設置され、かつて元気に国旗をたなびかせていたと気づく人は誰もいない。それでも痕跡はここに残っているのだ。

 

実は消えつつある国威宣揚碑

回っていて気づいたことがあった。それは「国威宣揚碑」が今でも消えつつあるということだ。今回20か所ほど回ったのだが、そのうち二つが消えていた。

ああ……。マンション建設の立て札が近くにあったので、そのあおりで撤去されてしまったようだ。(牡丹2丁目)

神社にあるのも安泰ではない。(五方山 熊野神社

普段住んでいて、「戦争の跡」をはっきりと見ることはほとんどない。そのため各地にまだ残っている国威宣揚碑は貴重な存在なのは間違いない。しかし、そのほとんどが保護されていないので消えていってしまう一方だ。

どうか、国立駅のような余生を送る国威宣揚碑が増えますように。

 

ネットサーフィンと散歩で見つけた都内の国威宣揚碑をプロットしてみたのでどうぞ!

江戸時代に「きつねダンス」が大流行していた

 

日本で「きつねダンス」が流行っている。ある日、江戸時代の本を読んでいると「稲荷踊り」なるものを見つけた。そのとき脳内の翻訳アプリが動いた。「稲荷踊り -> きつね踊り -> きつねダンス」たしかに! 気になって調べてみると、「徳川将軍が見物した」とか「禁止された」とか次から次へと不思議な記述が出てくるではないか。今回は、江戸時代の「きつねダンス」の正体にせまろう。

 

※本記事では、現代の物差しで考えづらい怪現象(?)が出てくるが、あえてその是非に触れないで進めていこうと思う。疑問にとらわれるよりも、せっかくなら斜に構えず楽しんだほうが得だ。

 

令和の日本にきつねダンスが響き渡る

2022年、日本できつねダンスが人気をさらった。……らしい。というのも、野球を普段見ないので、流行語大賞にノミネートされたのを聞いて「そんなに人気があったのか」と興味を持ったぐらいだった。

しかし、のんびり1年を振り返りながら「紅白歌合戦」を見ていると、きつねダンスがバッチリ出ているではないか。とどめを刺されたのが紅白のあとに流れる「ゆく年くる年」だ。いつもは薄暗いお寺をしっとりとした面持ちで放送する番組なのだが、今年は違った。照明カンカンでドラムガンガンの音楽に合わせて踊るケモ耳姿のチアダンサーたち。

これがゆく年くる年

 

これだけ物静かな番組まで乗っ取ってしまうそのきつねダンスの力に、思わずひれ伏した。

 

そんなきつねダンスに魅了された新年の日のことだ。趣味で古い本を読んでいたとき、突然「稲荷踊り」という文字が目に入った。

のっていたのは江戸時代のお触れが書いてある本だ。

 

「幕府、稲荷踊りを禁止」とある。禁止される踊りとは?(索引政治経済大年表 年表篇)

 

稲荷=きつね、そして踊り=ダンスだ。つまりはきつねダンス! 1841年、つまり182年前にもきつねダンスが存在したということか。

太鼓と鐘の調べに合わせて着物の裾をひらりとなびかせて舞う女性の姿が頭に浮かんだ。これはチアダンスとはまた違った良さがありそう。タイムスリップして見てみたいぞ。

 

江戸時代の「きつねダンス」は降霊術!?

でも冷静になると変だ。江戸時代にはケモ耳カチューシャもEDMも存在しない。では、江戸時代のきつねダンスはどんなものだったのだろう。

調べたところ、文字通りきつねにつままれた気持になった。降霊術や口寄せの一種だったというのだ。

 

まずは、福島県のきつねダンスはどのようなものだったのか紹介する。発祥は福島県の可能性が高いらしい(*1)。

狐に代わって告げる人は手の親指を内側にしてにぎり、それに手拭を掛けて持って坐る。その人を寄り人という。その周囲を輪になって五、六人が坐り、または立って回る。その時、狐踊りの歌をうたう。何度かくり返しているうちに狐が寄り人に憑く。そして憑くとこちらで聞きたい事を聞くとお告げがある

(奥会津南郷の民俗)

お告げ! ほしい。今ポストのダイヤル錠が開かなくて困ってるからどうすればいいか教えてほしい。あと電気スタンドを買おうと思ってるけど選ぶの面倒だからいいの教えてほしい。そう考えると、きつね踊りって便利屋みたいだ。

「そんなどうでもいいこと聞くか?」って思う人がいるかもしれないが、「紛失物のあったとき」にきつね踊りを行ったって記録もあるので正しい使いかた(の一つ)だと言い訳しておく(分類祭祀習俗語彙 オカマカジ)。

*1「地蔵を憑けて伺いを立てる」という風習が福島県のみに存在している。その類似として、オカマ憑け・狐踊りの風習も福島県から始まったのではないかと推測できる。

 

きつね踊りって人気だったの?

ここで一つ疑問が出てきた。きつね踊りってどのくらい人気だったのだろうか。

最初に読んだお触れでは、きつね踊りが幕府によって禁止されていた。

見直すとやはり「稲荷踊を禁止」とある。(索引政治経済大年表 年表篇)

わざわざ「禁止」と書くならば、それなりには人気があったと考えるのが自然だ。

さっそく人気の証拠を見つけに行こう。

そしてトリビアの泉に「江戸時代にもきつねダンスが流行っていた」って送って金の脳をもらいたい。懐かしくなって金の脳をメルカリで調べたら2770円で売られてて意味もなく悲しくなった。

 

そんな斜に構えた気持ちで検索すると、とんでもない大物が引っかかった。思わず後ずさった。

その名は、徳川家慶(いえよし)。なんと「徳川十二代将軍」が見ていたという。

「稲荷踊など唱えるもの見物」とあるではないか。(徳川実紀 巻五 187頁)

 

きつね踊りは、江戸時代のトップが見物するほど人気だったのだ。

出典の『徳川実紀』は徳川将軍の動静を記録にした本だ。つまり、現代に直すなら「首相動静」に「岸田首相、きつねダンスを見学」と書かれるようなもの。

今のところ、きつねダンスを岸田首相が見たという話は聞かない。

つまり、江戸時代のきつねダンスは令和のきつねダンスよりも流行っていたとこの一面では言えるのだ!

 

きつねダンスはどうして人気だった?

政治のトップが見るほど人気だったきつね踊り。となると改めて気になるのが「なぜ人気だったのか」ということだ。

しかしきつねが憑いて宣託が下る儀式か。現代に合わせると、地下のイベントスペースでひっそりと行われるディープなイベントみたいなイメージが浮かんでくる。

テレビで例えるなら、「野球番組」ってよりも「(本来の)ゆく年くる年」のほうが近いんじゃないか。果たしてこんなに人気が出るものなのだろうか。

 

では、何が人をきつね踊りに駆り立てたのだろう。

実は、きつね踊りは江戸に伝わっていくにつれ形を変えていったようなのだ。

 

先ほど、きつね踊りのミソは「宣託(お告げ)」と書いた。しかし、どうも江戸近辺で行われたきつね踊りには、もう一つ新たな要素が加わっていたようなのだ。

それが「踊り」だ。

余興か! 障子の桟や屏風に乗るってすごい。(神奈川の民俗

※トウガミ=きつね踊りのこと ナカザ=憑かれる人のこと

これはたしかに楽しそうだ。普段物静かな人がキレッキレな踊りをしたりSASUKEでしか見ないようなアクロバティックな動きをしたらそりゃあ盛り上がるに決まってる。

 

この上に人が乗るのか。中国雑技団もびっくりの芸当だ。(Photo by (c)Tomo.Yun

ようやく腹に落ちた。最初のきつね踊りは、憑いたきつねに質問をし答えてもらうものだった。しかし、徐々にきつねに余興をたのんできつねがノリノリでそれに応える、そんなお祭りみたいな場に代わっていったのだ。

 

パリピになったきつね踊り

江戸できつね踊りが流行ったのはようやく納得した。では最後の疑問だ。最初にきつね踊りを知ったとき、書いてあったのは「きつね踊りを禁止する」という内容だった。

幕府がはっきりと「禁止」と定めるほどだったきつね踊りとは、何者だったのだろう。問題のある踊りのイメージとして裸踊りがぱっと浮かんだがきっと違う。

では、江戸幕府が禁止した「お触れ」の内容を見てみよう。

杉並で実際に掲示されていた記録が残っている。(杉並区郷土博物館研究紀要 第18号)

うん、読めない。終わり。ともいかないので、がんばって太字の部分を翻訳してみた。間違っているところがあったら直します。

大勢が集まり、一人に気を移したら、多くの人がことごとく狂ったように調子にしたがって踊り出し、中には正気に戻らず命にかかわる者とらえられる人もいた

きつねの神託が下る儀式は、江戸ではすっかりどんちゃん騒ぎになっていたのだ。その果てには、憑いたきつねが戻らなかったり騒ぎすぎて捕まった人もいたと。

つまり、騒がしく危なくて収拾がつかなくなるから禁止します、ということか。

頭に浮かんだのは終電後の繁華街の姿だ。騒ぎ足りない人、酔って意味もなく突っかかる人、そして伸びている人を起こす警察の人。秩序が遠ざかったあの場所を思い出した。今も昔も変わらんなあ。こういう今との共通点を見つけると、歴史を調べていて良かったとしみじみ思う。

 

今も昔も変わらない

こうして江戸時代のきつね踊りは禁止されていった。ところが、禁止のあとに風習が消えていったかというと、そうでもないという。

皆さんは楽しいことが禁止されたらどうするだろうか。多くの人は「こっそりやる」のではないだろうか。小学生のとき「1日1時間」を超えてゲームをするために親に隠れてやっていたのでよくわかる。

それはきつね踊りも同じだったのだ。きつね踊りの記録は、大正時代までポツポツと見つけることができるという。ものによっては昭和初期まであったとか。

 

今回調べて思ったのは、今も昔も変わらないということだ。きつねは太古より神社や物語で大活躍してきた。そして人が踊りを楽しむのも不変のもの。そう考えると、令和と江戸の両方にきつねダンスが存在するのも偶然ではないのだ。

200年後の日本では、どんなきつねダンスが流行っているんだろう。

 

参考文献

  • オカマ憑けと狐踊り――民間シャマニズムの一面――
  • 索引政治経済大年表 年表篇
  • 会津南郷の民俗
  • 徳川実紀 巻五
  • 神奈川の民俗
  • 杉並区郷土博物館研究紀要 第18号

「パラレルワールドのココカラファイン」が吉祥寺にある

ココカラファインを知っているだろうか。白地にピンクのロゴが輝くあのドラッグストアだ。ある日、吉祥寺にまったく違った姿のココカラファインを見つけた。まるでパラレルワールドココカラファインだ。おもしろそう。ちょっと深堀りすると、同じような店舗が全国各地にポツポツと残っていることが見えてきた。

 

吉祥寺のココカラファインがおもしろい

ココカラファインといえばピンク色の店である。地球が太陽の周りを回っているのと同じ、世の中の真理だ。

そう思っていた。

どこにもあるこういうやつ。

吉祥寺駅を降りたとき、真理が崩れた。

右側にある緑の建物を何となく眺めていると、

見たことないココカラファインに出会った。

ピンク色じゃないココカラファインなんて存在していいものなのか。太陽が世界の中心ではなかったのか。

気のせいではない。

目をこする。頬をつねる。世界は緑色のままだった。頭の中には宇宙が広がって猫が目を見開いている。

謎:色が違うココカラファインは何者?

 

落ち着いて観察しよう

首をかしげていてるだけは何も進まない。いったん足を進めてちゃんと観察してみよう。

施設の異常を見逃さない警備員にも負けない念入りさで店の周りを歩き回ってみる。

すると、新たに二つ気づいたことがあった。

① クローバーをとにかく推している

よく見ると、四つ葉のクローバーがあちらこちらに見える。それも普通の量じゃない。

緑色の場所あればクローバーあり。

店の側面にもグリーンベルトが続いている。

町の一角でここだけ草花が栄えている。都会のオアシスはこんな駅チカにあったのだ。せっかくだからと数えてみると、なんと49個。葉っぱの枚数にすると196枚だ。

吉祥寺といえば自然もある街っていうイメージがあるけど、駅前に緑の隠れスポットがあったとは。

 

② 歴戦の勇者感

もう一つ気づいたことがあった。どこかベテランめいた風格がある。

ココ 、カラダ、ゲン

キャッチフレーズの「ココロ、カラダ、ゲンキ。」がはがれている。新たな「ンョ゛ハー゛」はここにあったのか。

他の場所も似たようなものだった。無事な「ココロ」がない。

ゲンキな状態ではないな。

どうやらこのお店、できたばかりではなさそうだ。

お店の名誉のために言っておくと、古っぽく見えるのは正体を暴いてやろうみたいなよこしまな心で見ているからであって、普通に買い物するぶんには気にならないぐらいだ。

 

吉祥寺のココカラファインは一号店だった?

ここで、わかっていることをいったん振り返ろう。

色が違うココカラファインは何者なんだろう。今わかってる手がかりは二つ。

手がかり1:ロゴが現在と違っている

手がかり2:お店が古め

インターネットに手がかりがあるかもしれない。PCに向き合ってwebの海に潜っていく。

企業の詳しい歴史を調べるときは、投資家向けの情報を見るのが簡単だ。(マツキヨココカラ&カンパニー

すぐに答えが見つかった。思わずまばたきが止まった。そういうことだったのか。

今回訪れた「ココカラファイン吉祥寺南口店」は、「ココカラファインの一号店」だったのだ。

 

その結論にたどりつくためには、ココカラファインの歴史を知る必要がある。とはいっても大事な出来事は二つだけなので、身構えないで読んでほしい。

 

① 「ココカラファインホールディングス」が誕生(2008年4月)

ココカラファインが生まれたのは意外と新しく、2008年のことだ。

北京オリンピックで北島選手が「何も言えねえ」と歓喜し、福田総理が「あなたとは違うんです」とこぼしてしたあのころに、緑色の産声が上がった。

当時のココカラファインの資料を見ると心に緑の風が吹いた。

見覚えのあるマークがある!(2008年3月期 決算説明会)。

ココカラファインホールディングス」が生まれた経緯はこうだ。

薬局のセガミメディクスセイジョーが統合し、「ココカラファインホールディングス」が生まれた。

大事なのは、このときセガミ」「セイジョー」のブランドがそのまま使われていたという点だ。

図にしてみた。円の大きさはおおよその店舗数を表してます。

つまり、この時点では「ココカラファイン」というお店は存在していなかった。

 

ココカラファインブランドの店が登場(2012年5月)

4年後の2012年、ココカラファインに新たな布石が打たれた。

吉田沙保里がオリンピック三連覇と13大会連続優勝をなしとげ、「霊長類最強」と言われるようになったあのころだ。

ココカラファインは買収を重ねて成長しながら、薬局界で勝ち上がる新たな手を模索していた。そして生まれたのがココカラファインブランドの店舗」を作ろうというアイデアだ。

その野望の足がかりとして選ばれた場所が吉祥寺だった。

買収を重ね四つのブランドが共存している中、新顔が生まれた。

つまり、吉祥寺南口は記念すべき「ココカラファイン発祥の地」だったのだ。

 

パラレルワールドココカラファインが他にもある!?

これからは吉祥寺を通るたびに一人心が弾みそう。と、資料を見ていて気になる文章が見つかった。

ココカラファインブランド店舗の出店

販社統合のシンボル的な意味合いである実験店を夏までに3店開店し、ブランドイメージ、訴求方法等の検証を経た後に全店への展開を検討。

2012年3月期 決算説明会

パラレルワールドココカラファインは他にも存在しているのだ。てっきりあの一店舗だけが特別かと思っていたけどそうじゃないのか。

今、異世界転生した主人公が他にも転生者がいることを知って驚く気持ちを味わっている。

 

ではこの「3店」は何者だ。調べると、たしかに2号店と3号店が見つかった。

本当にあるんだ。そして3号店は残っているではないか。となると、行くしかあるまい。朝霞へ。

こうして「ココカラファイン」が目的地のショートトリップが始まった。

 

ココカラファイン朝霞店へ

さあ、朝霞駅に到着だ。家が東京なので、薬局に行くためだけに県境をまたいでここに来たことになる。

もし薬局で買い物するのではなく見に行くために1時間電車に揺られた人が他にいたら友達になりたい。

朝霞駅ではゆるキャラぽぽたん)がなぜか銃を構えていた。調べると、自衛隊基地がある上にオリンピックの射撃が行われた場所だったとか。

ぎょうざの満州」を見ると埼玉の人がうらやましくなる。餃子だけでなくラーメンも安くておいしいしとにかく居心地のいい店だ。

ココカラファインだ! と思ったけど違った。

15分歩いたところに、見覚えのある文字が目に入った。思わず足が止まった。

あった。ピンクじゃないココカラファインだ。

やはりこれもピンク色じゃなかった。でも緑でもないのか。「実験店」だけに、このデザインも新たな試みの一つだったのだろう。

近づくと吉祥寺のココカラファインと同じ特徴が見えてきた。それが「風格」だ。

継ぎ目から10年間の重みを感じる。デザインは継ぎ足さずに使っております。

入口は新旧混じったデザインになっていた。赤い帯がはがれかけていて思わず応援した。

ちなみに、店内はいたって普通だった。
吉祥寺店との違いは、駅前ではないのでお客さんが3人ほどで静かだった点だ。心なしか進む時間が穏やかだった。こういう場所なら静かに暮らせそうだ。

朝霞には、また吉祥寺店とは違った良さのココカラファインと出会うことができた。

 

ここからは蛇足になるが、帰り道に看板を見つけた。

地域の看板、よくあるやつだ。

こういう標語の看板はよく見るものだ。でも、実際知らない人に挨拶する街ってそうないよな。そんなことを考えながら歩いていると、

「こんにちはー」

えっ?

目をやるとそこにはお店の前に立ってる笑顔のお姉さん。思わずあせって会釈しかできなかった。

さらに50メートルほど歩いたころだろうか。

「おかえりなさい」

今度声をかけてくれたのは交通整理をしていた警察のおばちゃん。

「ただいま」

思わず返事していた。これから電車で帰るところだけど。

朝霞、優しい街だった。便利なドラッグストアもあるし餃子の満州もあるし、もし埼玉に住むことになったらここにしよう。

よさこい祭りの季節にも行ってみたい!

 

ここからさらにマニアックな話

さて、パラレルワールドココカラファインが吉祥寺と朝霞に残っていることがわかった。となると気になるのは「デザイン違いのココカラファインは全部で何店舗あるのか」だ。

試しに会社に問い合わせてみた。翌日に返事が来た。

現在、数店舗にて色合いの違う看板等が採用されております。

なるほど。ならば自分で調べてみるしかないな。

さて、調査結果を先に言おう。パラレルワールドココカラファインは全部で9店舗残っていることがわかった。

 

9店舗にたどりつくためには、「現在のココカラファイン」が誕生するまで歴史をなぞる必要がある。この流れ、さっきと同じだ。

さらに深い話になるが、ぜひついてきてほしい。

 

いったんおさらいをしよう。

ココカラファイン1号店が開店したときの状態を復習だ。

2012年に旧ココカラファインの店舗が吉祥寺にはじめて生まれた。しかし、そのデザインは現在と違ったものだった。

では、ピンク色のココカラファインはどうやって生まれたのだろう

 

ココカラファインが再編成される(2013年4月)

吉祥寺南口店が生まれた翌年のことだ。ココカラファインに激震が走った。

今まで子会社でバラバラだった各薬局を全部一つの会社にまとめたのだ。こうして新会社「ココカラファイン ヘルスケア」が生まれた。

この変化にともなって生まれたのが現在のココカラファインのロゴだ。

会社の変更と同時に新たな方針が生まれた。現在の店を「ココカラファインブランドの店に変えていく」ということだ。

全薬局ココカラファイン計画。

本題に戻ろう。パラレルワールドココカラファインについて、こうは言えないだろうか。

ココカラファイン1号店が生まれた日」から「ココカラファインが再編成された日」の間に開店した「ココカラファイン」はデザインが今と違っているはずだ。

こんがらがってきたので図にしてみた。ちゃんと伝わっているだろうか。

 

パラレルワールドココカラファインは13店舗存在した!

ということで、2012年5月~2013年4月の間に開店したココカラファインを知りたい。が、どうやって調べればいいんだ。教えてグーグル先生!

グーグル「あいよ! これはどう?」

あるんかい。こういうときインターネットがある世界で良かったって思う。

で、調べてみた結果が先ほどの結果につながる。一覧にしてみた。

つまり、パラレルワールドココカラファインは13店舗あった。そして9か所は今も当時のまま残っている!

東の茨城から南の福岡まで、こんなに広い範囲で残っていたのか。

 

終わりに

2021年、ココカラファインマツモトキヨシが合併し、新たに「株式会社マツキヨココカラ&カンパニー」が誕生した。ただしブランドはそれぞれ別々のものを使っている。

この展開、ココカラファインの始まりと一緒だ。ということは、将来はまた「マツキヨココカラ」の実験店がどこかに生まれるかもしれない。

人は時間とともに変わっていく。街も変わっていく。そしてココカラファインも変わっていく。人生と同じだ。

だからこそ、そんな歴史の小さな一ページをここに残すことができて満足だ。

最近クローバーマークがあると目で追ってしまう。

 

さらに見つかってしまった

さあ、謎は解けた。満足しながら画像検索していたときのことだ。PCに向かっていて思わず「えっ」と声が出た。

別の「パラレルワールドココカラファイン」を見つけてしまった。

しかもオレンジ色だ。調べたところ、どうやら2012年11月には「ドラッグセガミ」からリニューアルしたっぽい。

つまり、「旧ココカラファイン」の新規開店と並行して、系列店の一部も「ココカラファイン」としてリニューアルしていたのか。

パラレルワールドココカラファインは13店舗より多かったのだ。

今のところわかっているのは「香里ケ丘店」「苅田店」「瓢箪山店」の三つだ。もし他にもあればぜひ教えてほしい。

伊東の名士・伊東祐親が親しまれてきた理由をたどろう【114年前のガイドブック旅 番外編】

 

先日、114年前のガイドブック『伊豆新誌』を使って伊東の街を歩く記事を書いた。

dailyportalz.jp自然と歴史に温泉、そして景色。彼らの一部は現代を生き残るために形を変えつつも、多くは昔と同じ姿で迎えてくれた。

今回は、その中から削った場所を「番外編」として紹介する。

 

地元で慕われている名士をたどろう

本編では、伊東に島流しにされた源頼朝ゆかりのスポットを歩いた。でも、『伊豆新誌』の伊東のページに書かれている武将はもう一人いる。

それが伊東祐親(すけちか)だ。

駅前の看板にも名前が出ていた。それほど伊東では有名なのだ。

その慕われ方には相当のものがある。今でも「伊東祐親まつり」と名前がついたお祭りが残っているなんてなかなかあるものじゃない。

さて、散策を始めよう。

本によると、伊東祐親の住んでいた場所が残っているらしい。さっそく行ってみよう。

駅から歩くこと20分。小高い広場にたどりついた。

休日にお父さんと子どもがキャッチボールをしてそう。

目に入ったのは広場右側の台座だ。どれどれ。

伊東祐親の銅像を発見!

勇ましい祐親の姿がそこにあった。でも、どこか違和感があった。銅像の後ろを見てほしい。やたら近代的な建物がそびえている。

せっかくの祐親ゆかりの地に、彼の存在感を打ち消すような立派な建物を建てるのはありなのだろうか。

 

一体何の建物だ。確かめてやろう。

スマホの地図アプリで建物の場所を見る。思わずうなずいた。そういうことか。

正体は「伊東市役所」だった。

イメージが180°ひっくり返った。市の中心の場所である市役所は、伊東祐親ゆかりの地に作られていたのだ。かつて伊東の中枢だった場所が、今も中心であり続けている

そして市役所の横には今でも伊東祐親がいる。伊東の町では、今でも祐親の人生が息づいているのだ。

 

伊東祐親が人気な理由を探ろう

彼が人気であることはよーくわかった。となると気になってくるのが「祐親がなぜここまで人気なのか」だ。これを解くために次の場所へ向かおう。

実は、伊東祐親と源頼朝の間には大きな因縁があり、それが慕われる大きな理由につながっているとか。

ここでちょっと歴史の話をしたい。

伊東祐親が領主として治めていた期間は、ちょうど頼朝が流されてきたときと重なっている。つまり、「見張っとけ」と言って平氏が頼朝を伊東氏に預けたということだ。

急な階段を下って森の中へ。

で、思い出してほしい。密会していた音無神社の頼朝だ。ここで問題が生まれる。頼朝が密会していた相手はその「伊東祐親の娘」だったのだ。

それだけなら良かったのだが、果てには頼朝の子を出産するまでの関係になってしまう。

こんがらがってきたので図にしてみた。

平氏にばれたら無事ではすまない。そう思った祐親は、生まれた子を川に流すことにしたという。

今回向かう「とどろきが淵」は、子を流したと伝わる場所だ。

グオーっと低音がだんだん大きくなっていく。すぐに川べりに到着した。

いい景色だ。でも、子どもが流されていった場所でもある……。

思ったのは「これは助からん……」ということ。ぐごごごと荒ぶる流れと柱状に割れた崖の美しさと悲しい話が頭でぐるぐると渦を巻いていく。

もっと知られてもいいと思う。

絵葉書になっていそうな隠れた名所だ。それだけに悲しい出来事との対比に思わず足が震えた。

ただ、人気の理由は見えた。平氏への忠義を貫き通したまっすぐな心根に惹かれているんだ。

 

伊東祐親のお墓へ

最後に向かうのは、伊東祐親のお墓だ。

伊東祐親と頼朝の話には悲しい続きがある。歴史を思い出してほしい。このあと源頼朝平氏を滅ぼし鎌倉幕府の将軍として活躍していく。

すると微妙な立場になるのが、平氏からの命を受けていた祐親だ。いろいろあった末に、祐親は頼朝に捕らえられることとなる。その後頼朝は祐親に許しを出す。

しかし、祐親は平氏への義理を通すために受け入れずに自害してしまうのだ。

街の中にひっそりとたたずんでいた。鎌倉時代末期に建てられたものがそのまま残っている。

首を下に向けると、花々や飲み物や硬貨とお供え物が目に入る。主である平氏のために子を川に流し、誇りを守るために自害までしてしまう。

現代以上に不安定な時代にまっすぐに生き抜いたその姿がとても大きく、まぶしく見えた。

よく見ると造花だって思って写真を撮ったけど、そんなことはどうでもよろしい。

 

伊東、いいぞ

伊東祐親という町の基礎を築いた一人の武将がいた。彼は840年たった今でも町の人に慕われている。

今回、その生きざまを114年前の本を使ってたどることができた。840年前と114年前と現代。三つの時代はどれも比べられないほど違うはずなのに、今回それぞれの時代の人と同じ場所を歩いたような、そんな不思議な感覚を味わうことができた。これだから歴史と街歩きはおもしろい。

ちょっと固い文になってしまったが、伊東の良さが少しでも伝わればうれしい。

とどろきが淵の近くの廃神社が味わい深かった。

「自由ポータルZ」に掲載された記事を振り返ってみる

 

2022年1月。自由ポータルZに送った記事が5回目の入選をした。そして今、デイリーポータルZに体験執筆として2本の記事を送り出し、少し一息ついているところだ。そんな今だからこそ、自由ポータルZを振り返ってみたい。

今回は自分の足跡を辿ってみます。

 

おもしろ記事が好きだった

ムダにも見えることを全力でしているネットの文章が好きだった。自分もなにか楽しいことをしてみたい。そう思って大学では広報誌を作る委員会に入った。割と自由な雰囲気の組織で、記事のためにサバゲーをしたり徹夜をしたり東京から江の島までチャリで旅行したりとたくさんの思い出ができた。もちろん大変なことも多かったけどそれはそれ。

せっかくだから卒業前に力試しをしてみたい。そんなとき目の前に現れたのがオモコロとデイリーポータルZ共催の「おもしろ記事大賞」だった。最後の春休みを使ってこのブログを立ち上げ、散歩して拙い文章をひねり出し、応募ボタンをぽちり。

tenyard.hatenadiary.jp結果はまさかの佳作! こうして満足感とともに社会人生活が始まった。

 

慣れない仕事に忙しい日々。文章は書き続けていたい。でも何を書けばいいんだろう。そこで、とりあえずガジェットのHPを作ってみることにした。しかし、続けていて見えてきたのは「記事は書けるけど自分が楽しめてないな」という悲しい事実。

そのせいというわけではないけど、いわゆる「おもしろ記事」っぽいやつも気が向いたときに書いていた。年に一本ぐらいのペースだ。

文章を書くためにはネタが必要だ。自分が楽しめる、没頭できるものを見つけたい。そう思って色々手を出してみた。登山道具をそろえてみたり、暗渠道について深く調べてみたり、幅広くスマホゲームを試してみたり。

しかし、見えてきたのは「全部深くまでできない」という悲しい事実だった。登山をしても毎週行くようなモチベーションにはならなかったし、暗渠もすでに本を出しているような人には敵わないしそこまでの熱意はない。スマホゲームも飽きた。

結局わかったのは、「自分は一つのことを深めるのに向いていない」ということ。じゃあ自分が楽しめる場所はないのか。これという趣味がないから、卒業後に増えたツイッターのフォロワー数は0だ。

何か自分の核がほしい。

 

新人賞に応募しよう

閉塞感を感じながらも、細々とおもしろ記事を仕上げようとしていた日のこと。「DPZ新人賞2020」が目に入った。

dailyportalz.jp

ときはコロナ禍。遠出もできないしやってみるか。

結果は落選。でも、中間発表では選ばれた。さらに自由ポータルZに応募したら入選した。ここで気づいた。もしかして、このままおもしろい記事を書いてたらいけるんじゃないか? よし、もっと書いてみよう。

こうして新しい挑戦が始まった。

 

掲載されていた記事を振り返る

さて、ようやく本題だ。自由ポータルZに載った記事を振り返っていこう。送ったのは全部で13本。そのうち掲載されたのが10本だった。当時の心情とともにお送りします。

(題名が記事へのリンクになっています)

 

1. 杉並に点在する「遊び場」の正体に迫る!(入選)

dailyportalz.jp先ほども紹介した通り、最初に手ごたえをつかんだ記事だ。あまりに構成が難しくて読みやすさまでまったく手が回っていなかった。ただ、当時の自分のベストは出し切れたので悔いはない。

論文みたいに固い記事だったけど「おもしろがり」の力を評価してもらえたのが心に響いた。そして課題が見えた。今自分に足りないのは文章をおもしろく書く力だ。そこで、noteを開設し文章を毎日更新する挑戦を始めることにした。

 

2. 中野に大正時代の刑務所の跡が残っていた(もう一息)

noteの毎日更新を1.5か月続け、ちょっとは文章力が上がってきた。そんなときネタ探しに古地図を眺めていると、中野駅の近くに謎の建物があるではないか。調べると、当時刑務所があったという。さらに、「レンガ片が残っている」という噂も見つけてしまいこれは私、気になります! 実際に行ってみると、そこに広がっていたのは想像を上回る光景だった。これはいける。よし、書こう。

なんとかできた。今回からは、大学の友人に見せることにした。一緒に編集をしていただけに容赦ないアドバイスをもらえる。ダメージは受けるけどめちゃくちゃありがたい。修正し、公開だ。

dailyportalz.jp結果は「もう一息」。今回驚いたのがアドバイスの熱量だ。「盛り上がる記事の書きかた」「おもしろい文章の書きかた」を長文でめちゃくちゃ具体的に書いていただけているではないか。これは活かすしかない。

 

しかもこの記事、あとからちょっとしたご褒美があった。はてなブックマークでちょっとバズったのだ。3桁もブックマークがついてコメントにはたくさん肯定的な感想がずらり。よし次もやるぞー。

 

3. 防災無線は地域の歴史の生き証人だ(入選)

DPZの18周年記念に合わせて、自由ポータルZで「棒」の記事を募集するという。何を書こうか。ふと浮かんだのが、「遊び場」を調べていたときに見つけた不思議な防災無線の姿だった。

決まればあとは実行のみ。防災無線を見に近所を歩き、ネットの情報をもとに埼玉まで遠征した。前回のアドバイスを活かし文章と構成をひねり出して、形ができあがった。

dailyportalz.jp結果は入選! しかも前回の改善点を意識して書いたところもほめていただけているではないか。現状の課題も見つかり、さあ次もがんばるぞ。

このあたりから、「入選5回目指してみるか」と意識するようになった。

 

4. 一人で「だるまさんがころんだ」をしたら友達ができた(もう一息)

大学で広報誌を書いていたメンバーと通話をする機会があった。そのとき、同じ題材でそれぞれ記事を書いてみようかって話になり新しい企画が立ち上がった。

決まったテーマは「一人でできるかな」。コロナで集まれないから一人で楽しめることをやってみようって流れだ。そこで、今回はじめて工作系のテーマに取り組むことにした。

工作の能力はないけど作るのは好きだ。こうして生まれたのが「一人でだるまさんが転んだ」をするゲームだ。できたはいいけど楽しんでもらえる構成が思いつかず、今回も頭をひねり続けた。その結果生まれたのがだるまくんに人格を持たせる構成だ。さて、おもしろがってもらえるかな。

dailyportalz.jp結果は「もう一息」……。直していて自分でも何がおもしろいかわからなくなっていたし、仕方ないか。

 

しんみりしていたら、思わぬ方向から反応があった。何となくニコニコ動画に上げてみたら運営さんにピックアップしてもらえたのだ。

news.livedoor.comまさかライブドアニュースデビュー! おもしろがってもらえたみたいで良かった。

 

5. 都会にある沖縄の魔除け「石敢當」が個性的でおもしろい(もう一息)

2021年になった。今年の目標は「入選5回の達成」だ。noteでこっそり宣言した。

次は前から気になっていた「石敢當」をテーマに書こう。防災無線のために遠征したときとか散歩でちょこちょこ目に入っていて、気になっていたんだよね。

dailyportalz.jpもう一息だったけど、割と悪くなかった出来だと思う。ただ今までの記事と違って熱意は少なかったかも。

 

この記事で5か所の石敢當を紹介した。そのあとも記事のネタのために東京の様々な場所を散歩し、1.5年がすぎた。しかし、石敢當はあれから2か所しか新たに見つかっていない。なぜ5か所も普通に見つかったのか、今思うと不思議だ。

 

6. 川沿いにあるスピーカーの謎を解いたら洪水との戦いが見えてきた(入選)

2回連続のもう一息。次の方針を考えていたとき、「オモコロ杯2021」の発表があった。結果は防災無線の記事が銅賞に! しかし心は晴れない。本当にこれで良かったんだろうか。おもしろい記事じゃなくて受けやすい記事を送ってしまったんじゃないか。

omocoro.jpよし、今度は受けるかじゃなくて自分のやりたいことをとことんやってみよう。頭に浮かんだのが「水位警報機」だった。

やることが決まった。しかしこれまた調査が大変で、資料が少ない上に散らばっていて着地点が見えてこない。川と図書館とネットの海を泳ぎ回る日々。構成もこんがらがってどうすればいいんだ。

でも、思いつめることはなかった。遊び場をまとめられた自分ならできる。なによりパズルのピースを埋めるみたいで楽しい。こうして新しい記事が生まれた。

dailyportalz.jp結果は入選! 手ごたえがあっただけにそっとガッツポーズをした。

 

後日この記事をオモコロ2022に送ったら銅賞を受賞できた。思い出の記事だ。

 

7. 阿佐ヶ谷駅にある張りぼての「素朴さ」を愛でる(入選)

たしか2018年だっただろうか。自由ポータルZのアドバイスに「定点観測してみよう」とあった。楽しそう。そう思い当時やってみたけど、掲示が中断されてしまい書きそびれていたネタがあった。しかし、夏のある日にその場所を通ると復活しているではないか。これは書くしかない!

記憶をたどり必死におもしろさを練り、脚色を加え、問い合わせをしてできあがったのがこの記事だ。

dailyportalz.jp入選でべた褒めされている! このとき投資の勉強をしていて、記事書いててもお金にならないから別のことをしたほうがいいんじゃないかと考えたりもしていた。でも、3回入選したし書いてて楽しいからこのまま続けよう。そっと背中を押してもらえた。

 

8. 「けなげ組」がいなくなってさびしいからAIの力で新しく作りたい(もう一息)

街歩き要素のない記事、その2。

今まで記事を書いていて気づいたものがある。どうやら自分は「防災無線」とか「石敢當」とか、普段人が気づかないようなものにスポットを当てたくてたまらない性分らしい。つまり、「けなげなもの」が好きということか。はっ! けなげな存在、亀田の柿の種にいたよね。

調べてみると5年前に幕を閉じ、さらにけなげな存在になっていた。ならば僕がスポットを当てるしかない。みなぎるやる気。こうして無理やり(?)ひねり出したのがこの記事だ。

dailyportalz.jp「もう一息」だったけど、自分でも構成がもっと良くできそうと思っていたのでこれは納得だ。ちなみに、けなげ組への想いが高じてそのあと番外編の記事を二本も書いている。

 

この記事、狂気記事王決定戦に応募したら優秀賞を受賞した。世界に届け、けなげ組の良さ!

 

9. 「ご自由にお持ちください」を観察すると「人生」が見えてくる(もう一息)

街歩きしていておもしろそうなものを写真に撮っていて、「ご自由にお持ちください」の写真がたまってきたのに気づいた。となるとあとは切り口だ。考えた結果、「その持ち主の人生が見えてくる」ことに着目して書くことにした。石敢當もそうだけど、こういう紹介記事は構成がシンプルで書くのが割と簡単だ。

dailyportalz.jp結果はもう一息。書くのは簡単なだけに、もっとおもしろがってもらえるようサービス精神旺盛で書いたほうがいいか。また新しい視点がもらえた。

 

10. 天下一品カップ麺を「天下一の環境」で味わおうとしたらやりすぎた【反省】

2021年が終わった。実はこのあと一つ記事を書いたけど、まさかの選外……。三作連続で入選を苦し、年内5回の目標は未達成となってしまった。次こそは入選したい。よし、次は久々にガッツリ街歩き調査をやりますか。11月と12月は土日にひたすら東京の街を歩き回った。ネタもそろった。しかし、いつものことだけど構成が難しい。時間だけがすぎていく。

 

そんなとき、弟に初日の出を見に行くことを誘われた。せっかくだから記事のネタになることしたいな。そうだ、天下一品カップ麺が発売されたんだっけ。山頂で食べたらおいしそう。

こうして軽い気持ちで実行した登山は、計画・道具・体力ともに反省点ばかりのものとなってしまった。ギリギリやりたいことはできたけど、これ書いたら山好きの人に怒られるやつだ……。

でも書かないのはもったいないからとりあえず作ってみるか。最近調査ばっかりして頭が凝り固まってるし、気分転換にちょうどいいや。こうして肩の力を抜いて新記事ができた。書いてて楽しくなってきたし、自由ポータルZにも送ってみよう。

dailyportalz.jpまさかの5回目入選だー! 「人生をオリジナルな方法でエンジョイしている素敵な記事」ってすごくほめられてる気がする。

ただこの記事、アドバイスを読んで反省した。もっといい記事の終わらせ方があったなと。そういう意味では、今日紹介した中では一番手直ししたい記事だったりする。

ちなみに、情報を集めていた街歩き記事は戦争の話がからんでいるため、しばらくは寝かせておく予定だ。

 

振り返ってみて

その気になって文章を書くようになってから2年がすぎた。「一つのことを深めることができない」という自分の弱みは、気づいたら「色々なことに興味を向けられる」という強みになっていた。一人も増えていなかったフォロワーは記事つながりでちょっとずつ増えていき、一部の人とは実際に会うまでになった。

明らかに張り合いができて毎日が楽しくなった。ありがとう。

 

改めて振り返って感じたのは、「自由ポータルZ、すごい」の一言だ。プロの人が無料で自分一人へ向けてアドバイスしてくれる機会なんて普通はない。無料でいいんですか。しかもそのおかげで文章や構成から小手先のテクニックまで本当に多くのことを吸収できた。本当にありがたい場所だ。

あとは、「なんだかんだ楽しんで書いてたんだな」ということも発見だった。これを書く前に頭の中で振り返ると、いい文章が書けず苦しんでいたことが印象に残っていた。でも実際はそれだけじゃなかった。毎回ワクワクするテーマを見つけてパズルのように構成を考え、苦しみながら文章を書いたあと、時にほめられて舞い上がる。楽しいからこそ10本+αも続けられたんだろうな。

もし少しでも「おもしろい記事を書いてみたい」って人がいれば、自由ポータルZ、オススメです。

社会で生きる力をベイブレードから教わった

小学生のころ、ベイブレードにドハマりした。放課後には兄弟でひたすらコマをぶつけ合い、休日はおもちゃ屋に突撃する日々。当時はただ夢中だった。でも、今振り返ってみると思うのだ。あのとき、ベイブレードから「社会を生きるために必要な力」を教えてもらってたんだなって。

 

衝撃の出会い

出会いは2000年の秋のこと。兄弟で参加してるプール教室の帰り道だった。途中で通るおもちゃ屋で目に入ったのは、プラスチックのスタジアムと二つのコマ。

 

「『ベイブレード』っていうのよ。お試し用を置いてみたからやってみて!」

 

おもちゃ屋のおばあちゃん。さっそくやってみよう。コマにシューターをセットする。スタジアムに向かって構え、それぞれプラスチックのひもを力いっぱい引っ張る。

 

ゴスッ ズオォォーン!

 

クールな風切り音を響かせ回るコマ。そして戦いが始まった。

 

ガキン! ガガ!

 

互いに一歩も譲らないベイブレードたち。がんばれ。負けるな。気づいたら身体を乗り出していた。

もっとやってみたい! こうしてベイブレードを遊ぶ日々が始まった。

 

始まったベイブレード争奪戦

あのあとスタジアムを買った。ベイブレードも買った。これで存分に家で遊べる。あとはベイブレードをもっとそろえたいな。

 

2001年1月。

そうこうしているうちにアニメが始まった。バックグラウンドが異なる少年たちが集まり、それぞれの思惑がぶつかりながらも世界一を目指していく王道ストーリー。ハマった。毎週月曜の夜、テレビにかじりつくのが習慣になった。今でもオープニング曲はそらで歌える。

 

f:id:tenyard:20220411133055j:plain

アニメといえばこの四体! 見た人には伝わるやつ。

 

もちろんそれは僕らだけじゃない。

"ビッグバン" が起きた。ベイブレードの人気爆発だ。

 

にやり。わかってたよ。人気が出たってことは新製品もさらに力を入れてくれるだろう。いつもより心なしか大股でおもちゃ屋に向かう。我、ベイブレードの先輩ぞ。

 

しかし、迎えてくれたのは「ベイブレード売り切れ」の文字。

そう、この時期からベイブレードは品薄になっていった。ベイブレードがほしい。でもめったに売ってない。当時はネットの情報もない時代。たよりになるのは己の足。

こうして、在庫を求めて近所のおもちゃ屋をさまよう日々が始まった。

 

ベイブレード品薄狂騒曲

ある日、いつものようにおもちゃ屋に足を運ぶ。店の入り口が見えてきた。そこには見覚えのある箱が!

ちょうど両手に収まるサイズの直方体。パッケージには円形のコマと雷っぽいかっこいいデザインの箱。間違いない。ベイブレードが入荷したんだ。

陸上選手顔負けのスピードで近づく。手に取る。よし、レジへGOだ!

 

「お願いします!」

 

レジに箱を置く。置いた姿勢のまま固まる。

パッケージに違和感。なんだこれ。

よく見ると、レジにあるのはベイブレードっぽいけど違う何か。今風に言うと「異世界転生したベイブレード」みたいな。

見慣れぬ漢字が並んだパッケージ。そこに平仮名とカタカナは一文字もない。

そう、これは「海賊版ベイブレード」だったのだ。

 

しかたなく買ったけど、シューター(ベイブレードを回すやつ)の歯車が引っかかったりでいろいろ微妙だった。

 

f:id:tenyard:20220411133123j:plain

海賊版の部品(ウェイトディスク)を久しぶりに取り出してみるとヒビが(画像左)。

 

何事も、変に安いものを買うより正規品が一番。今思えばこれを最初に学んだのは海賊版と出会ったあの日だった。

 

再びのトライ

また別の日。今度こそ正規品のベイブレードを手に入れるぞ! と意気込んだ目に入ったのは、見覚えのある箱。なじみのある漢字とカタカナが混じったデザイン。今度こそ正規品だ! ありがとうおもちゃ屋のおばあちゃん。感謝の念を送りながら箱を手に取る。

 

持ちあがらなかった。重い。なんで?

 

もう一度、今度は両手でしっかりと力を入れる。

持ち上がったベイブレードの背中には、「パラッパラッパー」の人形がくっついていた。逆コバンザメ状態。

そう、このベイブレードは人形とセットで売られていたのだ。申し訳なさそうに背中を縮こませるおもちゃ屋のおばあちゃん。どうやら仕入れのときにそういう条件になっていたっぽい(確証はないけど)。

ベイブレードが遠ざかっていく。こうして「セット販売」という言葉の記憶をおみやげに、手ぶらで自宅に帰ることとなったのだった。

 

f:id:tenyard:20220411133226j:plain

あまりに手に入らなくてベーゴマを買ったりもした。これはこれで楽しい。

 

今でも、契約とかでいろいろセットにしてくるものがある。でも、そのたびにあの人形の重みがよみがえって不思議と強く断ることができる。ありがとう、パラッパラッパー

 

お祭りで三度目のトライ!

ベイブレードの入荷を待ちわびる日々。季節は夏になった。夏といえば祭りだ。ゲーム機とかレアカードとかの一攫千金がかなう、小学生にとっては年に一度の晴れ舞台。決して負けられない闘いがそこにはある。いざ、夏祭り、尋常に勝負!

 

鳥居をくぐる。親からもらった500円を握りしめ参道を歩く。たこ焼きやチョコバナナの屋台がこっちにおいでと香りを放つ。ごめん、今日は出番じゃないんだ。目指すは一つ、景品が当たる屋台だ!

 

一つのお店で思わず足が止まった。一歩も足が動かせなくなった。そこには "ベイブレードの天国" があった。度肝を抜かれたのは屋台のデザインだ。屋台の壁がすべてベイブレードの箱でできているではないか。いくつあるんだろう。ベイブレードの箱はだいたい10センチ四方。そして壁の大きさが1メートル×1メートルとすると、100台!!

しかも箱はそれだけじゃない。背面だけじゃなく、右面、左面にもベイブレードがびっしり。つまりここには300台以上のベイブレードの箱がある! ベイブレード曼荼羅だ。

 

闘いの舞台が定まった。ここだ。ベイブレードをゲットしてやるんだ。

深呼吸し説明を読む。

ベイブレードくじ 1回100円」

じゃりり。100円硬貨を握りしめる。絶対当ててやる。背筋を伸ばす。今度こそ手にしてやるんだ。

 

「1回お願いします!」

「あいよ!」

 

強面のおっちゃんにもひるまず堂々と申し込んでやった。くじの箱に手を入れる。今日はゴッドハンドになるぞ。手を引きあげる。手に握るは三角の紙。いざ、結果は……!

 

「はずれ」

 

「はずれの景品はこれな」

負けた……。はずれでもらえるのはプラスチックのコマ。正直ちゃっちい。ほしいのはもっと "クール" なコマなのに。

 

f:id:tenyard:20220411135828j:plain

いかにも子どものおもちゃっぽいデザインだ。

 

思わずひざをつきそうになる。が、ここはこらえて立ち上がる! 誰がこれで終わりだといった? そう、まだ手はある。お小遣いはまだ残っている。あと4回、俺のターンは残っているぜ!

 

背筋を伸ばし、再びおっちゃんと相対する。さあ、続きを始めよう。

 

2回目「はずれ」

3回目「はずれ」

4回目「はずれ」

 

ぐぬぬ……。健闘むなしく(?)ベイブレードとは似ても似つかぬコマだけが増えていく。勝負はあと一回。こうなったら引き下がれない。もう、使い切るまでだ。拳をグイッと握る。これをガッツポーズに変えてやるんだ。

 

さあ、ラストバトルだ。

 

「はずれ」

 

半泣きになった。さすがに泣くのはこらえたけども。貴重なお小遣いが吹っ飛んでいった。今、お祭り会場で「哀愁ただよう姿」を競ったら優勝できる自信がある。

背中を丸め、屋台に背を向けた。

 

「ちょっと待ちな」

振り返る。声の主は怖い顔をくしゃりとくずした笑顔のおっちゃん。

「がんばってたしな、これやるよ」

と、手にしたのは――

 

10センチ四方の箱。パッケージの中央には円形のコマ。間違いない。ベイブレードだ!

「ありがとうございます!」

思わず飛び跳ねた。受け取る。よし、結果はどうあれ手に入れた! 目標達成だ。スキップで背中を向ける。

 

1分後、ちょっと落ち着いてきた。そういえば、どんなベイブレードが手に入ったんだろう。ちゃんと見てみよう。手に持ったベイブレードを目の前に掲げる。

 

そこにあったのは、見覚えのある漢字の羅列。

そう、もらったのは海賊版ベイブレードだった……。

さすがに子どもながらに悟った。大人の社会って、きれいごとだけじゃないんだなと。

 

f:id:tenyard:20220411133246j:plain

はずれのたびに増えていった謎のコマたち。

 

中学・高校と進むにつれ、趣味の中心はカオスなインターネットに姿をかえた。一歩足を踏み外せばウィルスやあやしい請求が手ぐすね引いて待っているまさに地雷地帯。そんな場所を大きなトラブルなしに潜り抜けてこれたのは、間違いなくベイブレード屋台で身についた「疑う力」のおかげだ。

 

それでもベイブレード嫌いにはならなかった

様々な経験が大人にしてくれた。でも、そんな目にあっても不思議とベイブレード自体を嫌いになることはなかった。なんならベイブレード(第一世代)のコンテンツが終わるまで買い続けた。

なぜここまで熱中できたんだろう。一つ浮かんだ言葉がある。「遊び心」だ。

 

世の中にはたくさんのおもちゃがあるが、ベイブレードほど「遊び心」にあふれている商品を僕は知らない。

 

コマの攻撃力を上げるために軸をゴムにしたり金属球にしたり。

スタジアムとベイブレードにマグネットをつけて戦略性を上げたり。

ネジ巻きを入れることによって途中で回転を復活させたり。

ラジコンで回転をコントロールできるようにしたり。

 

f:id:tenyard:20220411133829g:plain

ちょっと触るだけでもギミックが楽しい。これはネジ巻きのやつ。

 

いや、言いたいのはこういうんじゃない。ベイブレードにはたまに「ぶっ飛んだ発想のもの」が混じっていた。それらには目を見張るようなギミックがあるのだ。

 

巨大なプロペラをつけてみたり。

火打石を入れて火花が出るようにしたり。

バネを入れてびよんびよん飛び跳ねるようにしたり。

 

これらの多くは正直弱い。でも問題はない。たとえ弱いのだとしても、ギミックにこんなにワクワクできるんだから。

この無限の遊び心、これこそがベイブレードのおもしろさの本質。そう思うのだ。

 

f:id:tenyard:20220411134046j:plain

プラモデルに力を入れすぎてベイブレードが脇役なものもあるよ。

 

あれから20年近くがすぎた。ベイブレードはあれから二度も復活をとげ、いまだに人気コンテンツの一角を占め続けている。息が長いコンテンツは世の中にたくさんある。でも、それらには復刻だったり当時遊んでいた大人をターゲットにしているものが多い。

一方でベイブレードのターゲットは毎回子どもだ。ここまできれいに世代交代をくりかえすことができるのも、やはり遊び心の力なのだろう。

 

終わりに

今でも仕事で手一杯になったとき、いろいろ行き詰ったときには頭の中でベイブレードが回りだす。それをながめるとハッと気づかされるのだ。今、遊び心を忘れていないか。楽しんで生きることを忘れていないかと。

ありがとう。今日も社会に揉まれながらなんとか楽しくやっていけているのは、ベイブレードのおかげだ。