中野に大正時代の刑務所の跡が残っていた

何となく古地図を見ているときのことだった。中野駅の近くに大きな建物を見つけた。調べるとかつてそこには大正時代からの刑務所があったらしい。しかもウィキペディアによると、跡地には今でもレンガ片や土塁が残っているらしい! ところが、レンガや土塁の跡について調べても何も情報が出てこない。ならば自分で調べてみよう。

実際に行ってみたところ、思った以上にいろいろな跡が残っていることがわかってきた。

 

謎の施設発見

はじまりは古地図だった。

まずはこれを見てほしい。左が大正5年、右が現在の地図だ。東京の中野駅あたりを表している。(今昔マップより)

 

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南にある横線が中野駅だ。北側と南側に大きな施設がある。南側はかつての日本軍の用地。スパイ活動で有名な「陸軍中野学校」があったのもこの場所だ。

そして注目したいのは北側。左側の大正の地図に書いてあるのは「豊多摩監獄」。

監獄。つまり刑務所だ。まさか中野にあったとは。刑務所というと郊外にあるイメージがあったので意外だ。考えたこともなかった。これは面白くなりそうな予感。

 

どんな刑務所があったんだろう?

刑務所についてさらに調べていく。それなりに有名な施設のようで、いろいろ情報が出てきた。わかったことをまとめてみる。

 

  • 「豊多摩監獄」「豊多摩刑務所」「中野刑務所」と時代によって名前が変わった
  • 大正4年に設立。昭和58年に閉鎖
  • 大正時代の表門が現在も残っている
  • 跡地は現在「平和の森公園」として整備されている

 

なんと大正時代の建物が残っているらしい。近所に大正時代の立派な建物があるなんて知らなかった。しかも建物はレンガ造り。

 

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当時の写真があった。こんな立派な施設が大正時代にあったのか。中央が表門。(『中野のまちと刑務所』より)

 

明治・大正のレンガって西洋に追いつこうという気概にあふれていて良くないですか? これはぜひとも見に行かないと。

 

平和の森公園に遺構がある?

調査を続ける。もうしばしおつきあいください。

昭和の終盤に閉じられた刑務所。跡地は現在はどんな姿なんだろうか。出かける前に「平和の森公園」を調べてみよう。こういうときはウィキペディアだ。ページを開く。一文にくぎ付けとなった。

 

かつての法務省矯正研修所東京支所の敷地内に旧中野刑務所正門が保存されている。刑務所の跡地を思わせるものはほとんど取り壊され、土塁半分に切られた塀落ちている煉瓦のかけらなどぐらいしか残っていない。

Wikipedia平和の森公園(中野区)」より引用

 

跡は残ってるっぽい。つまり、平和の森公園に行けば「正門」「土塁」「塀」「煉瓦のかけら」の四つに出会えるということだ。

見てみたい。体が前のめりになる。でも気になることがあった。それは、「さっきの情報のソースがなかった」ことだ。ウィキペディアだとだいたい内容のソースが書いてあるものだ。だが、この記事にはどこにもない。さらに、調べてもレンガ片の情報が全然出てこない。なぜだ。公園に史跡があったら話題になりそうなのに。

どういうことだろう。

もしかしてレンガ片なんて落ちてないんじゃないか。それなら情報が見つからなくても納得だ。が、それならウィキペディアがまちがった情報をのせていることになってしまう。これは事実を確かめないといけない。

 

平和の森公園に行ってみよう

ようやく本題の実地調査だ。平和の森公園は中野駅から北に歩いて15分の場所にある。いたって普通の住宅地。37年前まであった刑務所のおもかげはどこにも感じられない。

 

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普通の建物だけどやけに気になる。レンガへの感度が上がってきた。

 

平和の森公園が近づいてきたころ、突然住宅地らしからぬ建物が目に入った。

  

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刑務所で作られた商品が売られている店だ。とにかく安い。本革の筆箱が1000円未満で売られていた。今度買いに行こうかな。

 

刑務所作業製品。新宿駅西口地下でたまに見るやつだ。新宿以外ではじめて見た。こんな駅から離れているのに。

間違いない。これは刑務所の名残だ。本当にここに刑務所があったんだ。今まで文字だけでつかんでいたイメージが一気に身近になった。

 

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隣には矯正協会の建物があった。これも刑務所関連の施設だ。

 

もう平和の森公園は目と鼻の先。いよいよ刑務所の敷地に突入だ。

 

遺構を探せ!

いよいよ刑務所の跡に足を踏み入れる。かつての跡地の真ん中に作られた道を進む。

 

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この道の上にかつて刑務所があったのか。

 

ここで周りの施設を整理する。右側にあるのは平和の森公園と下水処理施設。左側はかつての法務省の研修所だ。研修所は現在使われておらず、立ち入り禁止になっている。大正時代の正門があるのは左側らしい。まずは左側を見てみよう。

 

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左側。一直線に壁が続いていた。

 

塀だ! しかも低い。半分に切られた塀があるというウィキペディアの内容は本当だったんだ。幸先がいいぞ。奥には白くて無機質な建物が並んでいる。これがおそらく研修所だったのだろう。

さらに進むと、ほかの建物とは違いオーラをまとった存在感のある建物が目に入ってきた。

 

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あった。大正時代のレンガ造りの正門だ。

 

大正時代の生き証人がそこにいた。思ったより状態はよさそうだ。正直もっと近くで見たい。でも立ち入りができないもどかしさ。昔はこれだけじゃなくて刑務所の建物も全部レンガ造りだったらしい。奥も美しい建物だったんだろうな。

 

レンガを探そう

道をつき当りまで進むと、右側に平和の森公園の入り口があった。さっそく行ってみよう。平らな場所なので、見つかるならレンガだろうか。

公園は地面もタイル張りで管理が行き届いてそう。入口には自転車がいくつも止められ、親子連れでにぎわっている。きれいでにぎわっているのはいいことだが、今回ばかりは素直に喜べない自分がいて罪悪感が出てきた。管理が行き届いているほど発見が遠ざかるというジレンマ。

レンガ探しに苦戦しそうな予感がした。

 

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ここが入口。看板のレンガは大正時代のものなのだろうか(問い合わせても返答がなくわからず)。

 

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裏に回ってみる。タイルが途切れて土が見えた。こういう場所にレンガあったりしないかな。

 

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そんなすぐに見つかるわけ……

 

何か見えたような。いやいや。

そんなわけないよな。

 

もう一度見てみよう。

 

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いきなり見つかったー!

 

平和の森公園に入って1分。あっけなく見つかった。こんな簡単に見つかるとは。

探しているとレンガ片はいくつも落ちていることがわかった。

 

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遊んでいる子どもにこの地の歴史を教えてあげたい。不審者になるからしないけど。

 

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薄い破片も落ちていた。タイムスリップしてどんなふうに使われていたのか見てみたい。

 

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40年近くこの場所に誰にも見られずいたと考えるとしんみりしてしまった。やっと見つけたよ。

 

まさかこんなにあっけなく刑務所の跡が見つかるとは。思わぬ宝を見つけて心はうきうき。完全勝利だ。

 

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レンガ片を追っていると空が広けた。これが平和の森公園のメイン広場だ。天気も祝福してくれている。

 

大正時代の跡を満喫できた。達成感に満たされながら公園をあとにした。

 

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ちょうど昼時だったのでインドカレーとラッシーで祝杯を上げる。うまし!

 

何か忘れているような

大正時代の刑務所と塀を愛でることができた。レンガ片もたくさん落ちていることがわかった。満足だ。ここで改めて調べる項目を振り返ってみよう。

 

  • 正門
  • 土塁
  • 煉瓦のかけら

 

レンガ片に興奮して土塁を忘れていた……。

振り返ってみると、土塁らしきものは特になかった。でもしっかりと確認したわけではないので見落としている可能性がある。いったん調べ直してみることにしよう。

まずは基本から。土塁がどんなものか調べてみる。

 

土を盛り上げて築いたとりで。 (コトバンク

 

盛った跡か。段差を見れば何かわかるかもしれない。

 

土塁について再びの調査

段差を調べよう。国土地理院の標高図で平和の森公園を見てみる。

 

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溝がある? これは土塁なんだろうか。土塁なら溝じゃなく山になるんじゃないのか。そもそも訪問したときはこんな高低差を見ていない。新たな謎が出てきた。

はたしてこれは刑務所の跡なんだろうか。当時の地図と地形図を重ねてみよう。

 

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四角いのが刑務所の敷地で、黒い線がさっきの凹凸だ。(「今昔マップ」より)

あれ? 溝は刑務所の中央を通っている。敷地の外側にあると思っていたのに。謎だ。

さらに拡大したら新しいことに気づいた。囲んだところをよーく見てほしい。

 

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北側の刑務所跡にそってちょっと段差がある。これはもしかしたら土塁かもしれない。

 

 ということで、2点の疑問が生まれた。

  • 深い溝の正体とは?
  • 北側に土塁の跡らしきものがある?

解き明かしに再出発だ!

 

溝の謎を突き止めよう

再び平和の森公園に着いた。今度は広場からスタートだ。

まずは溝の正体を調べに行こう。

 

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都会では貴重な広い空間。真夏じゃなかったらここで寝転がりたい。

 

左側の建物が体育館、右側が下水処理場だ。

地図を見ると、この建物の向こう側に例のくぼみがあるっぽい。

建物の向こう側が見たい。

 

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まずは右側からチャレンジ。あまりに茂みが深すぎて見えなかった。

 

考えてみると当たり前だが、下水処理場は人が誤って立ち入らないように作られている。そのため内側も見えないようになっているようだ。思わぬ誤算。

でも見たい。建物の周りを歩いてすき間がないか調べてみよう。

 

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体育館と下水処理場の間にすき間を発見! ここからなら下が見えそう。

 

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柵の向こう側が低くなっている。これだ。溝は下水処理場の敷地内にあったんだ。

   

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植物が生えているのが今立っている高さだ。5メートル以上はありそう。

 

あとで調べたところ、下水処理場の施設は地下に造られているという。溝の正体は、地下施設の露出している部分だった。やはり刑務所の跡ではなかったんだ。

 

北側に土塁はあるか

最後に北側の段差を見に行こう。地図で段差が出ている場所に着いた。が、一目でわかる段差はなし。地図にはあるのに……。

どこかにあるはずだ。しばらく歩いたところ一応それっぽいのを見つけた。

 

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心の目で見てほしい。右側が微妙に低くなっているのがわかるだろうか。

 

緩やかなスロープが続いている……っぽい。

 

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うん、気のせいではないな。ななめだ。

 

でもこれを「土塁」といっていいのだろうか。正直ウィキペディアに書くほどのものではない。

 

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レンガ片はここにも落ちていた。

 

結論、ウィキペディアにあった「土塁跡」は存在するか微妙。

どこか閉まらない結論になってしまった。

 

神社の跡もあった

不完全燃焼だ。そこで跡がないかさらに調べてみることにする。大正時代のレンガがあった立ち入り禁止の場所を外からのぞいてみよう。

 

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山積みレンガを発見。公園のレンガ片のありがたみが暴落した瞬間だった。

 

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気になるものが見つかった。レンガでなく石の何かが落ちている。

 

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近くに同じものがあった。灯篭(とうろう)だ! でもなんでこんなところに。

 

いったいこの場所にはなにがあったんだろうか。こういうときにたよるべきは古地図だ。

 

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1976年の地図に鳥居の記号を発見。昔はここに神社があったんだ。(今昔マップより)

名前は「寶樹(ほうじゅ)稲荷神社」。このお稲荷さま、刑務所の守り神のような存在だったらしい。刑務所が市ヶ谷から中野に移転してきた際にこのお稲荷さまも移ってこられたとか。それはぜひ会ってみたい。

ところで今はどこ住み? 調べるとすぐにわかった。近くの神社に移動してまつられているらしい。最後にお参りして今度こそ調査の結びとしよう。

 

最後に寶樹稲荷神社へ

歩いて5分。「新井天神北野神社」に着いた。ここに寶樹稲荷神社がまつられている。

 

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黒くて武骨な鳥居、意外と珍しいのでは。かっこいい。

 

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しばらく境内を進むと左側に目的地があった。到着だ。

 

寶樹稲荷神社についた。かつてこの石碑を受刑者も見ていたのだろうか。どのような願いをかけたんだろう。刑務所の開所当時から見守っていた存在にとうとう出会えた。いろいろ調べて歩いてきて最後にここにたどり着いたのにも縁を感じる。ぜひともあいさつしておきたい。

 

最後にお参りをしよう。

寶樹稲荷に向かい一歩踏み出す。

踏み出した足がそのまま止まった。

 

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まさかの工事中。お賽銭箱も撤去されていてお参りができない……!

 

仕方なく北野神社にお参りをした。

なんか締まらない。まあそういう日もあるよね。

こうして調査は終わった。

 

最後に

中野駅の近くには刑務所の跡がしっかりと残っていた。存分に体感することができて満足だ。土塁はなかったが。現在立ち入り禁止の敷地は現在区画整理の途中らしい。ひと段落して入れるようになったらぜひ大正時代の正門を堪能したい。

かつてこの場所に刑務所があったともっと知られるといいな。素直にそう思った。

 

デイリーポータルZ新人賞に応募し落選しました

デイリーポータルZの新人賞が公開された。

dailyportalz.jp僕の応募作はのっていなかった。落選だ。正直佳作ぐらいは行けると思ってた。1日ぐらい落ち込んだ。

今回応募したのはこれ。

tenyard.hatenadiary.jp「中間発表」では選ばれていたし、自信はあった。今までで一番面白く書けたと思ったからだ。むしろここまできれいにまとめることができるとは自分でも思っていなかった。

一番苦労したのは「構成」だ。調べまくった結果をどうやって「きれいに」「わかりやすく」人に説明するか。針の穴をつくような作業で楽しかった。仕事の帰り道に歩きながら考えに考えようやく思いついたこの展開。おかげでだいぶ力がついたとおもう。

スターも今までで一番ついたし、はてなブログ公式ツイッターにも取り上げていただけた。自信もついたし書いて本当に良かった。
さて、思い出にひたるのはいいが今回の結果は変わらない。2日たちようやくダメージから完全回復したのでそろそろ向きあっていきたい。今回うまくいかなかった原因は「文章表現力」にあると思っている。

ようは「おもしろいことをおもしろく伝える力」だ。これが本当に苦手で、どうやってもかたい言葉になってしまう。この能力は正直高校ぐらいの自分と比べてあまり進歩していない気がする。でも今まで使う機会もなくそのままにしてきた。応募作も文章力についてはまだまだ良くできるところはあったと思っている。能力不足だ。

なので今、そろそろなんとかしないといけない気がしている。これからも自分で書きたいものは書いていくつもりだし、今もいくつか準備している。でもおもしろさをロスなしで伝えるには表現力が足りない。

上達する方法がないか調べてみた。が、近道はなさそうだ。とにかく書くのが大事だと。まあ実際そうだろう。文才のある人はともかくそうでない人は手数で乗りこえるしかない。

そこで、とりあえず1ヶ月、毎日何かしらの文章を書こうと思う。今回はちょっと固くなったができるだけやわらかめで。正直力を入れると続かないので内容や分量は自由とする。まず大事なのは何事も続けること。

ということで、落選したけど書きたい意欲はおとろえず元気です。今後もよろしくお願いします。

 

↓ 投稿はNoteにする予定

note.com

音楽から記憶を思い出させる方法があるらしい

中学生のとき、先生のとある話が不思議と印象に残っている。それは「記憶に音楽を結び付ければ、その音楽を聴いたときに記憶をよみがえらせることができる」ということだ。そのときは結びつけかたがわからず忘れた。

しかし、この間ある音楽を聴いたときに突然記憶と感情がリフレインした。

その曲は「和楽・ダンシング☆サムライ」だ。

www.youtube.com

聴いた瞬間頭に映像がはっきりと浮かんだ。

 

 

あれは大学生のときのころ。

学園祭。ステージ。

黄色い声を上げる正面に陣取るファンたち。

サイリウムを持ってオタゲーの準備をする学生たち。

後ろで静かに見守るその他の学生(僕もそこにいた)。

そしてステージの彼は曲を歌い始めた。

 

「ダンシング☆サムライ」

 

動画と同じ曲、同じ声だ。ステージで歌っていたのは「ぽこた」。

僕はそのとき知らなかったが、ニコニコ動画でそれなりに知られた歌い手だった。

 

歌を聴いて正直普通だなと思った。

見た目は普通に格好いい。歌も普通にうまいが声量はない。

でも盛り上げるのはとてもうまかった。

ステージから観客をあおり、一緒にハンドクラップをしていた(普通の手拍子でなく、頭の上で手をたたくやつ)。

 

ステージはそれなりに盛り上がった。そして最後に彼は言った。

「脱サラします!」と。

 

脱サラ!?!?!?

 

強烈な言葉とともに記憶の再生が終わった。

 

 

あれから8年がすぎた。

そうだ脱サラだ。忘れていた。今も元気なのだろうか。

今さら薄情かもしれないけど調べてみよう。

ツイッターを見てみた。毎日精力的ににつぶやいている。元気そう。良かった。

最近は配信に力を入れてるっぽい。

 ちょうど配信していたので聴いてみた。

 

――歌めっちゃうまかった。記憶がまちがっていたのか。申し訳なくなった。

ぽこた、いいじゃん。

 

 

最後に中学のときに戻る。「音楽と記憶の話」がやけに印象に残っている理由を考えてみた。思い出した。先生はその話の直後にこう言ったんだった。

「私はこの曲を聴くと性体験を全部思い出します」

そのあとにその曲を聴いた気がするが覚えていない。

 

先生が授業で流すぐらいの曲なので、ある程度有名な曲で聴く機会はあったはずだ。でもその曲から記憶はよみがえっていない。にもかかわらず中学の授業は覚えている。つまり、この中学の記憶は先生の爆弾発言と紐づけられているということだろう。

図らずとも音楽より下ネタよりのほうが強いことがわかってしまった。

元素記号を下ネタで覚えている人が多いのはそういうことだったのか……。ここ最近で一番むなしい発見だった。

杉並に点在する「遊び場」の正体に迫る!

※本記事での調査は2019年12月~2020年2月に行ったものです。

散歩しているときにふと変なものを見つけた。

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暗渠(川の跡)のように細い道が伸びている。気になって曲がってみた。

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行き止まり? よく見ると「遊び場24番」と書いてある。

「遊び場」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは公園だろう。しかし、この自称遊び場とやらは見るからに遊びづらい。細いし見通しも悪い。ここでボール遊びをしたら隣の敷地に飛んでいって怒られる未来が見える。いったい遊び場とは何者なんだろう? なぜこのような謎の空間があるのだろうか。調べてみることにした。

意外と多い遊び場

「遊び場」で検索してみると杉並区のHPにあっさりと見つかった。

www.city.suginami.tokyo.jp

どうやら「公園」の一種らしい。そして遊び場は現在17箇所もあるとのこと。歩いて調べてみることにした。

遊び場は普通の公園だった?

遊び場は杉並のいろいろな場所に散らばっている。最初にたどりついたのは「遊び場112番」。

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まさかの普通の公園。しかも新しくてめちゃくちゃきれい。土管で遊びたかったけど近所の公園になかった子どものころを思い出した。

予想外ににぎわっている。謎の存在だった遊び場のイメージが一気にくずれた。「遊び場」という名前ならこっちが正しいはずなのだが、この遊び場に違和感を覚える自分に違和感を覚えた。そして人が多くていづらい。すぐに場を離れた。

次に来たのは遊び場112番の近くにある「遊び場114番」。遊び場の中ではもっとも番号が大きい遊び場になる。

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今度は普通の球戯場だった。となりには小学校の学童があり、こちらも遊ぶ場所としてきちんと使われていそうだ。

このあとも回っていると、多くの遊び場は普通の公園と見分けがつかないようなものであることがわかってきた。

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遊具にベンチに水飲み場。普通としか言えないぐらい普通だ。右の木馬が何の動物か絶妙にわからなくて好き。(遊び場35番)

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桜の木が並んでいる。春はお花見でにぎわっていそうだ。(遊び場50番)

やはり遊び場は普通の公園だけではない!

しかし期待どおりというべきか、それだけではなかった。多くは普通の公園と同じだが、たまに予想のななめ上をいくものがまぎれ込んでいた。

例えば広さだ。開放感にあふれた広い遊び場から10秒で通れるようなせまい遊び場まで、同じくくりにしてはとても幅広くそろっている。

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一番異彩を放っていた遊び場110番。とんでもなく広い。こういう空が広い場所は都会だとなかなか見られないので貴重だ。いやされる。

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かと思えば遊べるのか疑問を覚えるような小さい遊び場もある。川と家と道路に囲まれていて最初に見た遊び場以上に遊びづらそう……。(遊び場42番)

また、やたらと長細い遊び場もいくつかあった。

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道路沿いにとにかく長く続いている遊び場もあった。なんと400メートル近く続いている。こういう坂を登りたくなる気持ち、わかる。(遊び場90番)

遊び場をめぐってわかってきたこと

遊び場を歩いていて、いくつか公園と異なる部分が見えてきた。ここでわかった点と残った疑問を整理する。

わかったこと① 公園と違い遊び場は「一時的」なもの

遊び場を回っていて、いくつもの遊び場に似たデザインの看板があることに気づいた。看板には同じようなことが書かれている。それは、遊び場を開放しているのが「一時的」だということだ。遊び場の看板を見ると、多くの看板に「一定期間」「暫定的」という表現が入っている。

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「一定期間だけ遊び場として開放している」と書いてある。(遊び場18番)

遊び場は永続的なものではなく、ゆくゆくは他の姿になっていくということだろうか。遊び場の番号が百以上あるのに現在17箇所しかない理由はここにあるようだ。

しかしピンとこない点がある。なぜ一時的なのだろう。整備する手間を考えると、最初から公園として整備すればいい気がする。一時的にすることでどのようなメリットがあるのだろうか。

謎① 土地を遊び場として「一時的」に開放しているのはなぜ?

わかったこと② 遊び場と公園の違いは「所有主」にあり

看板を見ていてもう一つ発見があった。どうやら遊び場によって内容が少し違っているようなのだ。

例えば最もよく見かけたのがこれ。

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パターン1。一番多かったやつ。このように上下にわかれている看板には古っぽいのが多かった。(遊び場87番)

上の看板には「地域の方々のために一定期間だけ遊び場として解放しているものです」と書かれていた。

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パターン2。木をよけてフェンスと看板が立っているのに優しさを感じる。(遊び場96番)

こちらには「この遊び場は、地主さんのご好意により杉並区が設置しています」と書いてある。地主さんが出てきた。

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細かい説明がのっている。ところで落書きの「暴走天使」が気になって調べたら『湘南純愛組!』という作品が出てきた。まさかの布教だった。(遊び場110番

文字が小さいが、「この遊び場は、東京都が都市計画高井戸公園を整備するために取得した土地の一部を、杉並区が暫定解放し、地域の皆様に利用していただくものです。」と書いてある。今度は東京都か。

看板の内容から、公園と遊び場の違いがわかってきた。それは、遊び場と公園では所有主が異なるという点だ。一般的な公園の場合、所有・管理を地方自治体(市区町村, 都道府県)が行っている。しかし、遊び場の所有者は「地主さん」「東京都」など遊び場によって異なるようだ。一方、看板の下部分に載っている連絡先を見るに、遊び場の管理は一貫して杉並区が行っている。

わかりづらくなってきたのでとりあえず表にまとめてみる。

  所有者 管理者
都立公園 東京都 東京都
区立公園 杉並区 杉並区
遊び場 地主, 東京都, 杉並区 杉並区

公園に近しい存在である遊び場なのに、遊び場によって所有者が違うという状態になっている。なぜだろう。違和感がある。

謎② 遊び場の所有者がバラバラなのはなぜか?

わかったこと③ 広さや設備が公園によって異なる

遊び場と公園を設備面で比べてみると、大きな違いはないように見える。普通の公園と同じ遊具がそろっているし、遊び場によっては遊戯場(ボール遊びができる広場)もしっかりついている。

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遊び場113番は左側に遊具、右側には広場があり広々と遊べそうだ。

広さについても同様、狭いものから広いものまで幅広くそろっている。

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芝生が生えておりとても落ち着いた雰囲気。これもれっきとした遊び場だ。じかに寝転がって昼寝したくなる。(遊び場108番)

しかし公園の条件には当てはまらなそうな遊び場もある。それが、小さい空き地のような遊び場だ。

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ここで遊べと言われたら子どもは怒っていいと思う。(遊び場105番)

正直遊びには使えない。かといって整備しておく理由もわからない。何のためにあるのだろうか。

謎③ あまりに小さい遊び場はなぜある?

歴史と現在から見えてくる遊び場の正体

ここで、現在残っている謎をまとめておく。

 謎① 土地を遊び場として「一時的」に開放しているのはなぜ?
 謎② 遊び場の所有者がバラバラなのはなぜか?
 謎③ あまりに小さい遊び場はなぜある?

これらの謎は、遊び場の始まりを調べたところ理由が明らかになってきた。ここからしばらくは遊び場の歴史をなぞってみる。

遊び場は「子どもの遊び場不足」から始まった

時は60年前。日本は高度成長期に入り東京は急速に市街地化が進行していた。また、人々が豊かになるにつれ自動車も増加。これらの要因により、子供が外遊びできる場所がどんどん減っていった。

実際の様子は、杉並区が1974年に制作した当時の映像が残っておりとてもわかりやすい。野球少年が野球できる場所を探して苦労している様子が写っており、当時の子どもの苦労がしのばれる。遊び場もちらっと出ていた。

youtu.beちょっと脱線するが、この映像、塾に通って遊ぶ時間がない子ども、ゲーセンやテレビ鑑賞に苦言を呈す大人と現在の子どもと状況が変わっていなくて驚いた。この時代の子どもも同じ苦労をしていたんだな……。

さて、遊べる場所が少ない状況を重く見た杉並区。公園を増やそうと考えたのだが、問題になったのが予算だ。当時は現在ほど公園に力を入れておらず、公園用の土地を確保する予算が足りなかった。

そこで考えられたのが、「土地を借り一時的に遊び場として整備する」という方針だ。とりあえずは土地を借地として買っておき、簡単な遊具を整備する。そして可能ならば公園として土地を取得する方向で交渉していく。このようないきさつで1967年、遊び場1番が誕生した。

遊び場は必要性にせまられ、苦肉の策で生まれたものだった。公園の陰に隠れた存在なのは当時から変わらないようだ。これで遊び場が「一時的」である理由はわかった。

公園が増えた現在、遊び場の存在意義はどこにあるのか

1975年に46.4haだった区内の公園。行政が公園に力を入れ続けた結果、現在は3倍近い117.1haまでに広がった(2017年)。そのため遊び場の導入理由(公園不足 & 予算不足)を考えると、現在の遊び場の存在意義は下がっているのではないだろうか。

しかし遊び場を調べていると、どうもその心配は無用であることがわかってきた。現在の遊び場は新たな役割を与えられ、当時とは違った方法で地域に役立っているようだ。

ここからは、現在の遊び場の役割を考えながら残りの謎を解いていこうと思う。

役割① 防災の拠点として非常時に利用する

一般的な公園の多くには倉庫や消火用ポンプなどの設備があり、災害に備えられている。遊び場も例外ではない。遊び場を回っていると、防災施設が置かれている遊び場がいくつも見つかった。

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遊び場79番は「高円寺南防災活動拠点」と名づけられている。格納庫が設置され災害に備えている。

 倉庫だけではなく、消火器やポンプ、防火水槽など遊び場によってさまざまな備えがなされている。

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防火水槽がある遊び場もあった。ちなみに奥の管がついている建物は「吉の湯」というサウナつきの銭湯らしい。こういう発見があるから街歩きは楽しい。(遊び場98番)

確かに土地があって地域に分散している遊び場は、防災設備を置くのに良い条件がそろっている。遊び場は、普段は表に出ずともいざというときに役に立つ縁の下の力持ちという隠れた一面を持ち合わせていたのだ。

役割② 利用まで時間がかかる取得用地を「一時的な公園」として開放する

都市整備を考えるとき、取得した土地が「一時的」に空き地になることがよくある。例えば都市計画のために先行して取得した土地。そのような土地を有効に使おうと、「一時的」に遊び場として整備し開放することがあるようだ。

やたらと細長い遊び場の正体は、道路のために取得した土地だった。

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この場所には「補助61号線」という道路が計画されており、その用地が一時的に遊び場となっている。土地が直線でたしかに道路っぽさがある。(遊び場80番)

そのほかにも、さまざまな事情で「一時的」に開放している遊び場があった。いくつか紹介する。

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先ほど紹介した遊び場110番のまわりには、財務省王子製紙NHKのグラウンドがあった。現在は東京都が買い取り公園を整備中で、一部が遊び場として開放されている。そりゃ広いわけだ。

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遊具もない遊び場105番は、杉並区の「宮前二丁目地区地区計画」で利用予定の用地であることがわかった。確かに住宅地の中で空き地にしておくよりは植物を植えて整えたほうが見栄えがいい。

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芝生が美しい遊び場108番は、実は国に指定された史跡だった! 芝生の奥には近衛文麿の邸宅「荻外荘」がある。芝生部分の正体は「庭」だったのだ。現在荻外荘の建物部分は整備中だが、整備が終わりしだい「荻外荘公園」として公開される予定だ。

土地の所有者から一時開放している理由まで、遊び場によって違いがあってなかなか面白い。土地の所有者が遊び場によって変わっていたのは、土地本来の使用目的によって所有者が違うためということがわかった。所有者の謎もこれでとけた。

役割③ 必要な際に別用途で使用する

少し見方を変え、かつて遊び場だった場所をめぐっていると、新たな遊び場の役割がまた一つ見えてきた。

遊び場が設立された当時、遊び場はできるだけ公園にするべく土地を取得していく方針だった。その方針のとおり、確かに遊び場の跡地の一部は現在公園になっている。

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2017年に開園した高井戸あおぞら公園は、それまで遊び場106番という名前だった。活気がすごい!

しかし、現在の遊び場の跡地をいくつか巡ってみると、意外なことに公園以外の姿になっているものが多かった。それが「施設」だ。

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遊び場58番だった場所は保育園になっていた。2019年に開業したばかりだ。

調べてみると、現在保育施設になっている元遊び場は5箇所以上あるようだ。また、介護施設になっている元遊び場も見つかった。このように、現在の遊び場はいわば余剰の土地として確保している意味合いもあるようだ。姿を変えても住民を支え続けている元遊び場の姿にほっこりした。

最初に見た遊び場の正体は?

最後に遊び場を知るきっかけになった遊び場に戻ってきた。最初にこの遊び場を見つけたときは存在意義がわからなかったが、今なら訪問すればわかるはずだ。(ちなみにこの遊び場周辺で予定されている都市計画は特になかった。)

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改めて訪問すると、とても奥に長い。そして気づいた。奥に何かがある!

ここまで読んでくれた皆さんならだいたい予想はつくと思う。

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やはりそれは防災倉庫だった。最初は謎の空間だったが、しっかり地域の役に立っていることがわかりすっきりした。

これからも遊び場は人知れず造られ、そして人知れず消えてゆくのだろう。だがそれでいい。

最初から公園の影の存在として始まった遊び場。時代に合わせ役割を変えながらも、縁の下の力持ちとして杉並を支え続けている遊び場。

ぜひ末永く役割を全うしていってほしい。

 

付録:遊び場(全17箇所)写真集

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参考文献

神津島は神秘が「息づいている」島だった

今年のGWは伊豆諸島の神津島に行ってきた。島の雄大な自然を見たいと思って調べたのがきっかけだったのだが、現地で一番興味深く感じたのはその文化だった。「神津」という格好いい名前に負けない神秘的でたくましい興味深い島だったので紹介したい。

神津島のおさらい

まずは簡単に神津島を紹介する。神津島は東京都内から184km南に位置する周囲22kmの島だ。


大きな地図を表示

 拡大するとこんな感じ。


大きな地図を表示

 島には険しい山が複数あり、住民は島の西部に2000人ほどが住んでいる。ダイビングや登山として毎年多くの観光客が訪れているという。また、島というと水不足で悩む場合が多いが、神津島は水が豊富で湧き出ている箇所も複数あるという。

到着

 さて、今回はジェット船で出発し、最初に目に飛び込んできたのがこれだ。

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とても険しい……。割と新しい崩落跡が見えた。

到着は島南東部の三浦港。ここからお宿の人に送迎してもらい、村がある西部に向かう。

神の集う島?

さて、町に到着した。神津島の集落は4平方kmと狭く、住居、家、行政すべてがそこに集中している。海岸には前浜という海水浴場があり、夏は水泳客で賑わうそうだ。まずお出迎えしてくれたのがこの像。

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柄杓を持っている人に5人が集い、1人が寝ている。

説明書きを読むと、神津島の伝説を表現しているとのこと。

その昔、伊豆諸島の中心である神津島の天上山に、島々の神々が集まり会議をしました。一番大切な会議は、命の源である「水」をどのように分配するかでしたが、そこで次の朝、先着順に分けることになりました。

(中略)

最後に寝坊した利島の神様がやってきたときには水はほとんど残っていませんでした。それを見た利島の神様は怒り、わずかに残った水に飛び込んで暴れまわりました。この水が四方八方に飛び散り、神津島ではいたるところで水が湧き出るようになったと言われています。

神津島観光ガイドより引用

神話の世界が残っているとは面白そう。このときはそれぐらいの感想だった。

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天上山は島の中心にそびえる島最高峰の山。町からよく見える。

現在も続いている信仰

さて、まずはのんびりと街を歩いてみる。そこで驚いたのは、石仏の多さだ。

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道を歩くと100メートルもいかずに石仏が見つかる。

しかもどれも丁寧に屋根が作られ、お供え物が置かれている。

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村の中心だけでなく、少し外れた道沿いにも鎮座していた。

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ここにも!

お地蔵さんをはじめとした石仏は、都会を歩いていても珍しいものではない。しかしそれはたまに目に入るものであり、供え物がないものも少なくない。正直形骸化している部分があると思う。

一方神津島ではどれにも花や小銭が供えられている。しかもお地蔵さんだけでなく、風化で文字が読めなくなっている石碑も同じように祀られている。そう、神津島では今もしっかりと信仰が残っているようだ。なぜなのだろう。

今回の旅の目的が決まった。この信仰の理由を突き止めよう。

このあと「おたあジュリアの十字架」を見たり景色を眺めながら1日目が終わった。

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江戸時代にキリスト教を棄教せず信仰を貫き通したため神津島島流しになったおたあジュリアを偲んで建立された十字架。

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神津島といえば海の幸。夕食のタカベが美味しかった。

神話の舞台に登る

2日目は神津島の定番観光コース、天上山に登る。天上山は 神津島最高峰の山で、838年の噴火で現在の形となった。572m とあまり高くはないが、高山植物や砂漠、池、そして景色など見所が多く人気のスポットとなっている。

宿から登山口まで30分程度だったため、宿から歩いて登ることにした。

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この道でもお地蔵さんが祀られている。

登山口(黒島登山口)に到着。いよいよ登山が始まる。

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階段が整備されてはいるが、結構急で怖い。

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町がよく見える。町の周辺以外は山だった。

長く続いた坂道を登り終わると、そこには植物がびっしりと生えた平地が続いていた。

天上山は頂上付近に1周できるハイキングコースが作られている。場所によって多彩な顔を見せてくれるため歩いていて飽きることがなかった。

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高山植物が突然なくなった。そのギャップに自然の神秘を感じる。(裏砂漠)

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不動池。 中央には剣と石の竜王が祀られているという。

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ガレ場っぽい場所もあった。景色がきれいで写真を撮れば絵になる。

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天上山山頂。360°の大展望が広がっている。近くの式根島と新島も見えた。

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不入が沢(はいらないがさわ)。水の分配に神様が集まった場所といわれている。

それぞれのスポットの距離は近いのにまったく違う表情を見せてくれる。

木が一本も生えない荒野、のどかな雰囲気の池、そして島が一望できる絶景。ここまで幅広い表示を見せてくれる山はなかなか見つからないと思う。実際に登ってみて、かつて神様が集い昔から神聖な場所として大切にされてきた理由が自然と理解できた。

そんな神津島最高峰の天上山は町のどこからでも目に入る。生活しながら威厳のある白い山を見上げ日々の平穏に感謝する、そんな生活が頭に浮かんだ。

信仰の理由が少しわかった気がした。

大正時代の大工事

 一通り堪能したので帰ろうとしたときに気になるものが目に入った。

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大正時代の治山工事の跡があった。いい写真がなかったので看板で。

昔から土砂災害が多いため、大正15年に石垣を築いたという。大正時代にこの離島で日本最大級の工事が行われるという時点で、いかに災害が大きな問題だったのかが想像できる。

周囲はほぼ垂直の崖が連なっている。工事の場所から下を見下ろしてみると、険しい景色が見えた。

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治山工事跡(写真左下)の延長線上に町が見える。これは……。

もしここが崩れたら町まで届きかねないのではないか。これは確かに重大な問題だ。

そして驚くべきことに、その問題は今も続いていた。

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先ほどの写真を拡大した。砂防ダムが溢れそうになっているではないか。

砂を食い止めているダムの延長線上には町がある。この現代でも自然を制御しきれていないその姿に自然の恐ろしさを感じた。

 

これでコースは全部回った。下山しよう。下山路(白島登山口方向)は行きよりも緩やかで歩きやすかった。

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目前に広がる雄大な景色を眺めながらの下山が気持ちいい。

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帰りの道にも石仏など信仰の証が散在していた。厳粛な気持ちで鳥居をくぐる。

 登山口まで降り町まで歩く。帰り道に先ほどの砂防ダムの下を通った。そこでは新たな工事が始まっていた。

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頑張ってくれよ。自然とそう念を送っていた。

神が集まった伝説にふさわしい天上山。そして島の土砂による災害と今も治山工事が続くほどの過酷な環境。信仰の理由が自然と心に入ってきた。

砂防ダムのところに石仏があったら平穏を祈っていたと思う。

郷土資料館で答え合わせ

さて、最終の3日目。信仰の理由を確認するために郷土資料館へやってきた。ここなら天上山の伝説や土砂災害についての展示を見ることができるはずだ。

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郷土博物館の写真を撮り忘れたので近くにいた猫さんの写真を載せます。

郷土資料館はこじんまりとした2階建ての建物で、入場料は300円。

そこで目にしたのは想像をはるかに超えた過酷な災害の歴史だった。

火山

838年。神津島で大噴火が起こった。火山灰は近畿地方まで到達。現在の天上山の形はこれにより形成されたものだという。当時の住民は伊豆に避難したらしい。幸いなことに以降噴火は起こっていない。

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神々が集った不入が沢(はいらないがさわ)は噴火口の跡でもあり、その大きさが噴火の激しさを物語っている。

飢饉

神津島は海産物に恵まれている反面、急斜面のため畑が少ない。今回島を歩いていても畑の少なさには驚かされた。そのため、複数回大飢饉が起こっているという。驚いたのは、近代化が成された明治23年(1890年)にも起こっているということだ。この飢饉では283人が亡くなった。

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漁港の中心に神社がある。行き来が少ない昔は漁業が島の命綱だった。

火事

街が1箇所に集中しているため、火事が起きると甚大な被害が出てしまう。そのため火事対策が村での重要事項になっており、消防団の服装も展示されていた。昔から度々火事が起こっており、一番被害が大きかったのは飢饉から間もない明治32年(1899年)。なんと村の310戸のうち300戸が焼失してしまったという。

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第二次世界大戦の空襲も受けている。神社に焼夷弾が展示されていた。

土砂崩れ

またもや明治の40年(1907年)。今度は豪雨による山崩れが町を襲った。これによる死者は16人。家屋も大きな被害を受けた。さらに大正3年(1914年)にも土砂災害が発生。これらがきっかけで天上山の治山工事が始まった。

しかしこの災害は今も収まっていない。1988年にも大雨による土砂災害で阿波命神社の本殿が壊滅。さらには2000年。震度6弱地震が複数回神津島を襲った。地震の影響でがけ崩れや土砂崩れが相次ぎ、今でも爪痕が残っている。船から見えた崩落もこの地震で起こったものらしい。

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1997年に完成した最北部にある大黒根トンネル。その先の道が崩落したため現在でも立ち入り禁止となっていた。

神津島は様々な困難を乗り越え今に続いてきた。そしてその困難は今も一部は続いている。町の至るところに鎮座している石仏には、災害を鎮め明るい未来を祈る先人の思いが込められていたのだ。

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町にあった石碑。2001年には当時の天皇皇后陛下が視察・お見舞いに訪問された。

旅の終わり

旅が終わる。

険しくも神秘的な山。山の直下の狭い土地で長い間営まれてきた町。丁寧に祀られている石仏たち。改めて神津島の町を見返すと、今までとは違うとてもかけがえのないものに見えてくる。この島で精一杯生きてきた先人の方々に思いを馳せながら船に乗り、島を後にした。神津島、ここまで興味深い島だったとは。本当に来てよかった。

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島のスーパーで買っておいた島寿司が美味しかったです!

おまけ

最後に今回は紹介できなかった神津島の面白いところを軽く紹介して締めとしたい。

  • 未だ未解明!? 縄文時代の黒曜石の謎
  • 先祖から伝わる江戸時代の沈没船は本当に存在した
  • 観客が魚役? カツオ釣りのお祭り
  • 魚と明日葉が美味しい

神津島、オススメです。

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海もきれいでした!
参考資料

 

アイヌ差別の話に思うこと

アイヌ差別の話が話題になっている。

togetter.com

この記事を読んで、ふと半年前に見たアイヌ舞踊のイベントを思い出した。

 

昨年の夏、家族旅行で北海道に行き、然別湖のホテルで1泊した。
ホテルは行楽シーズンであるせいもあり賑わっており、それに伴いイベントも用意されていた。
その中の一つがアイヌ舞踊だった。

ホテルのバイキングを堪能しレストランを出ると、フロントにステージが作られ人が数十人座っていた。
アイヌ舞踊が始まるらしい。私はあまり興味がなかったが、家族は乗り気だったので見ることになった。
イベントでの舞踊というと「これが文化だ!」みたいな雰囲気で独特の踊りを踊って異文化を感じるというイメージがある。それでは文化の表面をなぞっただけで、分かった気にしかなれないのではないか。だからあまり気は進まなかった。

ステージが始まった。最初は儀式的な踊りで、男性が荒々しい動きで舞を披露するものだった。
次の踊りでは若い女性も登場したが、全体的に硬い雰囲気で踊っており(真面目な儀式なので仕方のないことだとは思うが)あまり面白くなかった。
また、その踊りに合わせてずっと歌っているおばあさんもどこか凄みがありどこか怖い雰囲気だった。
私は踊りを見ながら「どういう思いで踊っているのだろう」という疑問が頭の中で大きくなっていった。
おばあさんは文化を守るために踊るみたいな使命があるのではという予想はできる。しかし、若い人はどうなんだろう。実は嫌々やっているのではないか、なんて意地悪な考えもしたり。

「これで最後の踊りになります。最後はお客さんにも一人参加してもらいます」
中年のおじさんが一人指名された。どうやら夫婦連れで来ているらしい。
踊りが始まった。左右に若い女性。真ん中におじさんが胡坐。この踊りで会場の雰囲気は一変した。
左の女性がおじさんをくるっと回し左を向かせる。すると今度は右の女性がおじさんを回し右を向かせる。そう、一人の女性を取り合っている踊りだった。
一気に会場は笑いの渦に包まれた。奥さんも思わず苦笑い。
私も今までと異なる俗っぽい踊りに、面白さとともに「アイヌ民族も同じ人」だとを強く感じた。正直おじさんと変わりたいとも思った。
踊りが終わったのちに、舞踊しているメンバーが全員家族であること、色々な場所で公演を子なっていること、次はスタジアムで舞うことなどを教えてくれた。おばあさんが一気に息子や娘と一緒に楽しく舞台に出ている優しい存在になった。

 

いい公演だった。
アイヌの人々も泣いたり笑ったりするし、恋もする。そしてときには男女で修羅場になる。そんな当たり前のことを今回の公演で強く教えてくれた。
アイヌ民族に限った話ではないがが、文化に優劣を付けずに違いを楽しめるようにありたいと思う。

古道を歩いて富士登山しようと頑張った記録

突然、9月にまとまった休暇が取れた。特に予定はない。なんかやりたいことはないか自問自答してみる。そうだ、村山古道を歩こう。計画的というよりも突発的なきっかけだった。

村山古道との出会い

村山古道とは、標高0メートルから富士山まで続いている古道のことで、明治時代に廃道となった。しかし21世紀になってから再整備され、今に至っている。
私が村山古道に興味を持ったのは『富士山・村山古道を歩く』という本を見つけたことだった。作者は村山古道の再整備の中心となった畠堀操八氏。道中には道祖神や石碑などが残り、富士山信仰の息吹を感じることができるという。
ネットで検索してみると、住宅街や山の中を進んでいく楽しそうな記事がいくつか出てきた。

@nifty:デイリーポータルZ:海抜0mからの富士登山

d.hatena.ne.jp

これはいける。面白そう。そう思い行くことに決めた。

準備

最初に『富士山・村山古道を歩く』を買う。実は内容を読んでいなかったので、準備と並行して読み進めていくことにした。
次に必要なのは登山の道具。安物のハイキング装備しか持っていなかったので、いい登山靴をリュックを買った。雨に備え、雨具と通気性のいいズボンを買った。
道具が揃ったらルートを決める。

ルートを調べる

最初に村山古道のルートについて簡単に紹介する。出発は静岡県の吉原。海の近くに富士塚があり、そこから出発する。北上し村山浅間神社をすぎるあたりから本格的な登山道になっていく。そして六合目で富士山の一般的な登山道である富士宮口登山道と合流し、以降は通常の登山と同じルートとなる。吉原~村山浅間神社の地図を載せておく。

※ 地図上のルートはイメージで村山古道ではないので注意

 調べていると、山頂を目指すには大きな問題があることが分かってきた。9月に富士山に行くと、とても寒いうえにトイレが使えないという。そのため、今回は富士宮口登山道にある五合目をゴールとすることにした。五合目からはバスが出ているため、楽に下山できるというメリットも嬉しい。
さて、ルートを決める。出発地は静岡県吉原駅、目的地は富士山登山道の富士宮口五合目。迷うのは困るので、地図がほしい。調べてみると、村山古道の地図を通販で売っているという。しかし準備がギリギリなため、発送が間に合わない危険性がある。そこで見つけたのが、「ヤマレコ」だ。

www.yamareco.com

ヤマレコは登山ルートの記録と共有ができるサービスで、村山古道に行った人が記録を残してくれていた。しかもこれ、スマホアプリ「ヤマレコマップ」を使えば実際の位置とルートを比較できるのだ! これは実際の登山時にとても重宝した。

 宿泊場所

ヤマレコの地図により、詳細な位置がわかるようになった。ここで考えないといけないのが、宿泊場所だ。一日目を終える場所でちょうどいいのは、村山浅間神社付近。調べてみるとちょうどいい場所に「村山ジャンボ」という宿泊施設を見つけた。しかし調べてみると、サークル合宿など団体専用の施設であることが分かった。

murayama-jumbo.com

ネット記事ではテント泊をしている人もいたが、私にはそんな技術はない。他にも泊まれそうなラブホを見つけたが、一人で泊まる度胸はないし、心理的に休めない。結局最寄り町の富士宮のホテルを予約することにした。最寄り町といっても村山浅間神社から直線距離で5キロ以上ある。
しかし直前になって新たな事実が分かった。『富士山・村山古道を歩く』を読み進めると、村山ジャンボは村山古道に行く個人客も泊めてくれると書いてあったのだ。ホテルを予約してしまったあとだったので、電話してもきっと空いてないだろうと自分に言い聞かせる。もっと早く読んでおくべきだった。

残った心配事

準備が整ってきたが、二つ問題が残った。
一つは天気だ。それもただの雨ではなく、台風が来ているらしい。しかしどうしようもない。準備した雨具はユニクロ製。高くてもゴアテックスの雨具を買っておくべきだったかもしれない。
二つ目はルート。実際に村山古道を登った記事を読むと、どの人も楽しく登っている。しかし、書籍を読むと思った以上に過酷な場所であることが分かってきた。前半は舗装された道だが、後半は倒木の下や涸れ沢を通ることとなる。大雨時に涸れ沢を通るのは危険だ。さらに道が曖昧で迷いやすい場所が複数あるらしい。大きな不安を抱えながら現地に向かうこととなった。

 

出発(9月21日)

九州や四国で猛威を振るっていた台風だが、前日に温帯低気圧に変わった。台風でなくなったのは有り難いが相変わらず天気は悪く、新品のリュックにカバーをかける。トイレを済ませ準備完了。9時20分、静岡県吉原駅に到着し、旅が始まった。天気は悪いが、はじめての地に心が躍る。
最初に行くのは富士塚。かつての登山者が必ず寄っていた場所だ。ここの富士塚は珍しく石で作られている。

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ちなみにこのアングルは絶好の富士山スポットで、天気が悪くなければ背後に富士山がよく見えるらしい。

街並みを歩く

最初は広めの道沿いを歩いていく。登り坂も緩やかでとても歩きやすい。雨が降っていなければ快適だっただろう。
歩いていると、結構な頻度で古道の跡が見られて目を楽しませてくれる。

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神社や一里塚、馬頭観音など種類は様々で、かつての繁栄を想像すると楽しくなってくる。

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でも富士山が見える兆しはない……。

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しばらく歩いていると商店街に出た。吉原商店街だ。ここはかつての宿場町があった場所だという。かつての中心地なだけはあり、両側にひたすら店が続いている。しかし歩いている人がいない。当時は不思議だったが、今思うと平日の朝10時なのだから当然のことだった。

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商店街をすぎると、しばらく大通り沿いを歩くことになった。さらに雨が強くなってきた。写真ではわかりづらいが、路面の濡れ具合を見て察してほしい。雨具で蒸れ、速乾性だが撥水性が弱めのズボンはじわじわと濡れてくる。単調な登坂に飽きてくる。

のどかな道

東名高速道路をすぎたあたりで、雰囲気が変わった。道幅が狭くなり、大きな建物がなくなり空が広くなる。

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歩いている人はおらず、のどかな光景を独り占め。この景色を見られただけでも来てよかったと思える。雨も弱まってきたし最高だ。

古道の跡については、今までよりこじんまりとした古い石碑が出てくるようになった。

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しかも結構な頻度で目を楽しませてくれる。
そしてこの辺りから現れるのが、村山古道の標識だ。

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富士山の絵が描いてあるのが見えるだろうか。江戸時代は富士山を3つの峰で表したという。遥か昔に多くの登山者がここを歩いていたと考えると感慨深いものがある。

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しばらくのどかな風景が続く。まったりと進んでいく。

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雨もようやく止み、富士山を少しだけ見ることができた。その後ちょうどいい公園がなかったため、道端で休憩し昼食を摂る。

峠道へ

13時になろうかというとき、道を右に曲がりずっと歩いてきた道を後にする。

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ここから道が細くなり、山道に近い勾配になってきた。同時に古道らしさも感じられるようになってきた。

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細い道ではあるものの、右端には色々な石碑があり何とも言えないいい雰囲気を醸し出している。

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とてもいい雰囲気の神社を見つけた。ここの上には千と千尋の世界が広がっていても驚かないような絶妙な荒廃具合。進もうかと思ったが、急な階段が濡れていて滑りそうなのと蜘蛛の巣が多かったのでやめておいた。

 

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両側が畑だったのが林になり、坂が急な峠道になった。 たまに通り過ぎる車のスピードが速く、少し怖い。

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この辺りから霧が出るようになった。写真はうまく補正されているが、鬱蒼とした林で昼なのに暗く、さらに霧がかって視界が悪い。暗い洞窟のような、長居したくない雰囲気が漂っていた。

村山浅間神社

鬱蒼とした道を越えると広けた場所に出た。村山浅間神社に到着だ。

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神社はツアーか何かの団体客がいてにぎやかだった。そそくさと後にする。
時間は13時30分。思った以上に早く着いた。歩いた距離は20kmほど。足は疲れているがまだ余力がある。これなら明日も行けるかもしれない。希望が見えてきた。

山道の入口へ

体力にはまだ余裕があり時間も早い。そこで、もう少し進んでみて村山古道は歩きやすいのか調べてみることにした。
入口は村山浅間神社をしばらく左に進んだところにある。

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最初は石畳みの道が続いている。歩いてみると、とても滑りやすい。きちんとした登山靴を履いているのにバランスを崩しそうになる。一歩一歩気を付けないと転びかねない。幸い、石畳みの道は最初の一部分だけだという。

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気を取り直して進むと掘割のような道になってきた。道の先に何かが見えるような……?

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正体は倒木だった……。本の内容には木をくぐって進むような描写があったが、まさかここまで手前にあるとは思わなかった。今回は頭上だから問題ないものの、これが多くあるなら悪天候の中進むのは難しいかもしれない。しかも地面はぬかるんでいて歩きづらい。

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さらに進んでいくと似たような倒木がまだ続いていることが分かった。これはきついかもしれない。暗雲が広がるのを感じつつ、今日は引き返すことにした。明日のことは宿に着いてから考えよう。

富士宮

今日のホテルがある町、富士宮へ向かう。

富士宮までの距離は約7km。今日歩いてきた距離と比べれば余裕だろと思って歩き始めると、異変が起きた。膝の関節がしくしく痛み始めたのだ。経験上ケガではなく歩きすぎによる疲れなのはわかるのだが、これがなかなかつらい。突然痛さが顕在化したのは、おそらく富士宮への道がずっと下っているからだ。下りのほうが上りよりも負担が大きいのは知っているが、まさかここまで極端に足にくるとは思わなかった。一歩ごとが痛く、富士宮までの道のりは今までの20kmよりも長く感じた。

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ようやくお宿到着! スーパーホテルは安いのに部屋がきれいで温泉付きで朝食無料と素晴らしかったのでぜひまた利用したい。

決断

次の日。外は相変わらずの雨。足には昨日の疲れが残っている。スタート地点はここから7km先。この状態で村山浅間神社まで歩きさらに5合目まで辿り着ける自信はなく、仕方なくここで断念することにした。残念だが背に腹は代えられない。次来るときは絶対登ってやると決意しながらも、今回は断念となった。
この後富士山駅に移動して駅から忍野八海まで歩いて行ったら遠くて無駄に疲れることになったり、富士吉田口の一合目から五合目まで登ろうとして再び雨に体力を奪われて心が折れかけたりしたのは、こことはまた別の話。

村山古道に挑みたい人へ

今回準備していて困ったのが、村山古道に臨む際に具体的に何をどう準備しておくべきか書いてある記事がなかったことだ。そこで、今回の旅を通して大事だと思った点をここに残しておく。

ヤマレコのアプリはすごく便利

ヤマレコを使えば、今いる場所とルートを比較することができる。特に村山浅間神社をすぎてからは道があいまいな場所があるというので重宝する(と思う)。

村山ジャンボに泊まるべし

村山ジャンボはちょうど吉原と五合目の中間地点にある。テント泊をしないなら利用しない手はないだろう。

地図を買おう

スマートフォンが使えなくなる可能性はゼロではない。通販で買っておくと万が一の時に役立つはずだ。

『富士山・村山古道を歩く』は必読

ネットの記事よりもずっと詳細に歩き方が載っている。また、道の歴史や謂れも書いてあるので読んだ後に歩くとより楽しむことができる。

最後に

今回は本格的な登山になる準備不足と天候不順により手前で引き返すことになったが、村山古道の魅力を強く感じることができた。今度はきちんと準備をして今度こそ五合目までたどり着きたい。待ってろ村山古道!