3年で閉園? 吉祥寺に幻の「記念公園」があった

約50年前の地図を見ていると、吉祥寺に「野田記念公園」なるものを見つけた。しかし、検索しても情報はなし。

街歩き好きのアンテナがピコンと立った。これは、調べてみるしかないでしょう。

 

謎の記念公園

「記念公園」と聞いて、みなさんは何を思いうかべるだろうか。

僕の場合、まっさきに出てくるのは「昭和記念公園」だ。

昭和天皇の在位50年をお祝いして造られた公園だ。

幼稚園だったころに遠足で行き、いくらすべっても終わりが見えない巨大な「ローラー滑り台」で遊んで「こんな幸せな場所があっていいのか」と思ったものだった。

 

これですこれ。今見ると意外と短い。(国営昭和記念公園HPより引用)

ほかには広島の「平和記念公園」や大阪の「万博記念公園」がうかぶ人も多いだろう。

 

これらに共通しているのは、「何かの記念としてつくられた」ことと「広い」こと。

一目で見て「こいつはただの公園じゃないぜ」と思わせてくれるような、公園ヒエラルキーの上位にいるヤツ、それが僕の記念公園のイメージだ。

 

そんな前提をふまえて、これを見てほしい。50年前の吉祥寺の地図だ。

この違和感、伝わるだろうか。(『D・Xポケット版 東京区分地図』より引用)

「記念公園」にしてはあまりに小さい。地域のそこらの公園と張りあっているサイズ感だ。

小さなカブトムシがカナブンと互角にケンカしているのを見たときのガッカリ感を思いだした。

 

検索してみると、さらに首のかたむきが大きくなった。調べても情報がでてこない。

どうやら、この公園はもういないらしい。

AIに聞いてもわからず。

 

そもそも、「野田記念」って、なんの記念よ。

「記念公園」でありながらサイズは小さく、由緒がわからず、しかも今はない公園か。

謎に手招きされている。これは行くしかないでしょう。

 

行ってみよう

ということで、吉祥寺にやってきました。

おしゃれな住みやすい街でおなじみ。

目的地は「野田記念公園」(だった場所)だ。

まずは、駅前の通りを進んでいく。持ってきた昔の地図を見ると、変わったところと変わっていないところが牛柄のように入りまじっている。

駅前の「三菱信託銀行」は、「三菱UFJ信託銀行」に名前を変えて残っていた。

こういう「時層」を感じられるのが古地図のおもしろさだ。

 

足をすすめながら、50年前の日本はどうだったのか、頭の中で知識をふりかえってみる。

50年前は、「人口増加」と「産業の成長」を武器にひたすら前に進みはじめた日本で、かげりが目立ちはじめた時期だった。

近鉄百貨店」は「ヨドバシカメラ」に。デパートが栄えていた時代はどんな感じだったのだろう。

高度経済成長期がおわり、ふと立ち止まってあたりを見わたすと、「高齢化社会」や「都市の過密化」などの現代にもつながる問題が目の前によこたわっていた、と。

当時の吉祥寺も、人口が増えていろいろ問題をかかえていたのだろうか。

 

そんな時代にうまれた「記念公園」、何者なんだろう。

 

大通りの突きあたりを右にまがる。

人が減り、時のながれが少しゆるやかになる。

近くに「売り切れ」が落ちていた。

左にまがり、いよいよ住宅地に入っていく。

目的の公園はすぐそこだ。

住宅地にカフェがある。さすがおしゃれの街だ。



跡地にあった施設

駅から10分ほど歩いただろうか。

ようやく「野田記念公園」だった場所にたどりついた。

なんだろう、これ。

なにか施設になっている……?

そこにあったのは、「家」と「施設」の中間みたいな建物だった。

何かないかな手がかり。うろうろ歩くと、ありました。

「コミュニティセンター 九浦の家」

コミュニティセンターだったのか。コミュニティセンターとは、地域住人のための施設だ。場所によっては、「地域センター」「市民センター」「公民館」と呼ばれることもある。

 

さらに、建物のわきに謎の空間をみつけた。

これ、奥にいけそうだ。

進んでみよう。

のどかな道が続いていく。

駅チカとは思えない落ちつく空間だ。ここにイスをおいて読書したい。

空間の正体は「庭園」でした。

心は落ちついた。

しかし、頭のはてなはさらに増えた。

 

みなさんは、コミュニティセンターや地域センターと聞いてどのような建物を思いうかべるだろうか。おそらく、多くの人は大きめの建物がうかぶと思う。

こういうやつです。

ところが、目のまえに建っているコミュニティセンターは「庭」に「平屋」だ。イメージから離れすぎている。

コミュニティセンターを擬人化した「こみせん!」ってアニメがあれば、目の前のセンターは「不思議ちゃん」のポジションにおさまるにちがいない。

 

ただ、新たな手がかりがゲットできた。

「九浦」ってなんぞや。

「九浦」を調べれば、なにかわかるかもしれない。

 

蛇足だが、建物前にある「井の頭動物園」とコラボしたポスターがかわいかったので見てほしい。

一番気にいってるのは「『サギ』の注意喚起をする『フクロウ』」です。

 

見えてきた「九浦」の正体

「九浦」で調べると、ありました!

検索結果を見てうなずいた。

九浦の家」と「野田記念公園」は、どちらも「野田九浦(のだきゅうほ)」からうまれたワードだったのだ。

 

コミュニティセンターは、野田九浦の屋敷があった場所に建てられたものだった。

ちょっと見えてきたぞ。

 

野田九浦はどんな人?

ところで、野田九浦ってどんな人だったんだろう?

せっかくなので彼のエピソードを探してみよう。

 

ちなみに今、けっこう身構えてます。というのも、彼は「画家」だ。僕は芸術家に対して「変わった人」というイメージがある。

高校のころの美術の先生は、教師にしてはめずらしく髭をはやしていた。その髭がフランシスコ・ザビエルっぽかったので「ザビエル先生」と呼ばれていた。髪の生え具合もそれっぽかった

見た目だけでも不思議なのに、授業中に突然大声をだして反応を見たり、生徒指導の説明をしているときにずっと意味ありげな微笑をしていたりと、最後まで輪郭がつかめないままだった。

 

では、野田九浦先生はどうでしょう。

パラパラと調べていくと、だんだんエピソードが集まってきた。

九浦と家族 1920年代頃

突然のいいおとうさん。

 

左上:猫[仮称](1950年代頃)
左下:白猫(1957年)
右:K氏愛猫(1954年)

絵のタッチからにじみ出てくるやさしさよ。

動物好きに悪い人はいないよね。

 

湯元(1935年頃)

人望もあったと。

 

あれ? 九浦さん、近所にいたら友達になりたいタイプじゃないか。

孤高の芸術家のイメージが、ただの「近所のいい人」にぬりかえられていった。

 

1971年、野田九浦氏は91歳という大往生で生涯をとじることとなる。

そののち、彼の住んでいた敷地は、遺族によって武蔵野市に寄付された。

 

記念公園はいずこへ?

ところで、今回の調べものの目的を覚えているだろうか。

それは、「野田記念公園の正体を調べること」だ。

この50年前の地図が原点だ。

 

いったん情報をまとめてみよう。

この土地についてわかっていることを書き出してみる。

「野田記念公園」、どこいった?

 

ここからは、ローカルな情報を調べることでせまっていこう。こういうときはネットではなく本の情報を調べるのが一番だ。

そこで、当時の情報がまとまっている『市報むさしの』を図書館で借りることにした。

予想外に大きくて小学生の1学期終わりの下校を思いだすことになったので、借りる人は注意してください。

ページをめくっていくと、当時の時代が見えてきた。

当時もインフレがひどかったようで、わかるよその気持ち。(市報むさしのNo.669, 昭和49.7.15)

こういうイラストからしか得られない栄養がある。職員が書いたのかな。(市報むさしのNo.722, 昭和50.12.1)

ページをめくること1時間。

ようやく見えてきた。順をおって説明しよう。

 

1970年代の日本は、「交通事故の増加」や「公害」などの問題をかかえながらも成長をつづけていた。その成長のみなもとが、人だ。

今でいう「第二次ベビーブーム」が、ちょうどそのころだったのだ。

そのせいか、現在よりも子どものニュースが多めだ。(市報むさしのNo.620, 昭和48.4.1)

では、想像してみてほしい。子どもが増えると何がたりなくなるか。それが、「遊ぶ場所」だ。

当時は公園がたりず、公園にするための土地の確保が大きな問題となっていた。

「1坪(1.8m*1.8m)でいいからください」と。あまりな必死さだ。(市報むさしのNo.621, 昭和48.4.14)

そんなときに寄贈されたのが、野田九浦の旧邸宅だった

 

公園不足のときにちょうど寄贈された土地。

これは、公園を造るためにある土地だといっても過言ではない!

 

ページをめくる手が早くなる。

一つのページで、「おおっ」と小さく声がでた。

目にはいったのは、当時の「野田記念公園」の姿だった。

本当にあったんだ!(市報むさしのNo.689, 昭和50.2.1)

野田九浦の死去ののち、邸宅はこわされることとなる。

そして1975年に、跡地の広場と庭園部分が「野田記念公園」としてオープンした。

 

やはり、「野田記念公園」は、画家である「野田九浦の邸宅跡にできた公園」だったのだ。

 

もう一つの問題

となると、逆にあらたな謎が出てくる。せっかく「記念公園」ができたのに、なぜ今はコミュニティセンターになっているんだろう。

 

広報のページを進めると、こちらもしっかりと答えがあった。

 

当時の武蔵野市では、公園の整備とならんで力を入れていることがあった。

それが、市民の居場所である「コミュニティセンター」をつくろうというプロジェクトだ。1971年に「市民センター建設委員会」が立ちあがり、場所や建物の話しあいが始まった。

この意気込みを見てほしい。(市報むさしのNo.572, 昭和46.8.15)

そんなときに寄贈されたのが、野田九浦の旧邸宅だった(本日2回目)。

 

これは、コミュニティセンターを建てるためにある土地だといっても過言ではない!

 

こうして、公園の場所にコミュニティセンターがつくられる方針となり、2階建ての施設が計画された。

 

しかし、ここで野田九浦氏の人間力が生きてくる。子煩悩で動物好きでお弟子さんとの仲がよかった九浦氏は、地域の人からもしたわれていた。

当初は2階建ての予定だったのだが、「九浦さんが大事にしていたものをできるだけ残したい」との意見があがってきたのだ。

その結果、植物をできるだけ残して平屋建ての建物に計画がかわることとなった。

 

こうして1978年4月に「九浦の家」がうまれた。

やっぱり庭園を推してる。(市報むさしのNo.799, 昭和53.4.15)

「九浦の家」は、野田九浦氏が地元で大切にされていることの生き証人だったのだ。

 

その結果、1975年に開園した野田記念公園は1977年に閉園となり、「記念公園」としては異例の短さで姿を消すこととなった*。

やっとわかった。

「記念公園」という立派な名前がありながら情報がでてこなかったのは、短命だったからか。

べつの資料にも公園の写真があった!(『九浦の家の10年』より引用)

「開園期間のみじかい記念公園」で、ギネス記録ねらえるかも。

 

*『市報むさしの』によると、1977年10月にコミュニティセンター建設のために地鎮祭が行われているので、そのときには野田記念公園が閉園していたと考えられる。

 

終わりに

野田九浦氏が吉祥寺に引っ越したことがきっかけで、記念公園がうまれ、コミュニティセンターがうまれた。まるでピタゴラスイッチだ。

実は、このピタゴラスイッチにはもう一つの流れがあった。

野田九浦氏の没後に寄贈されたのは、土地だけではなかった。彼の絵画も武蔵野市にわたされていたのだ。

これらを寝かしておくのはもったいない。それがきっかけで、武蔵野市に美術館をつくる計画が立ちあがった。

こうして生まれたのが、吉祥寺の商店街にある「吉祥寺美術館」だ。

人気の街・吉祥寺には、「幻の公園」と「一人の画家の足跡」が今も息づいている。

 

参考文献

※記事中の絵画と野田九浦の写真は『野田九浦展』または『野田九浦―<自然>なること―』から引用したものです。