先日、114年前のガイドブック『伊豆新誌』を使って伊東の街を歩く記事を書いた。
dailyportalz.jp自然と歴史に温泉、そして景色。彼らの一部は現代を生き残るために形を変えつつも、多くは昔と同じ姿で迎えてくれた。
今回は、その中から削った場所を「番外編」として紹介する。
地元で慕われている名士をたどろう
本編では、伊東に島流しにされた源頼朝ゆかりのスポットを歩いた。でも、『伊豆新誌』の伊東のページに書かれている武将はもう一人いる。
それが伊東祐親(すけちか)だ。
その慕われ方には相当のものがある。今でも「伊東祐親まつり」と名前がついたお祭りが残っているなんてなかなかあるものじゃない。
さて、散策を始めよう。
本によると、伊東祐親の住んでいた場所が残っているらしい。さっそく行ってみよう。
駅から歩くこと20分。小高い広場にたどりついた。
目に入ったのは広場右側の台座だ。どれどれ。
勇ましい祐親の姿がそこにあった。でも、どこか違和感があった。銅像の後ろを見てほしい。やたら近代的な建物がそびえている。
せっかくの祐親ゆかりの地に、彼の存在感を打ち消すような立派な建物を建てるのはありなのだろうか。
一体何の建物だ。確かめてやろう。
スマホの地図アプリで建物の場所を見る。思わずうなずいた。そういうことか。
イメージが180°ひっくり返った。市の中心の場所である市役所は、伊東祐親ゆかりの地に作られていたのだ。かつて伊東の中枢だった場所が、今も中心であり続けている。
そして市役所の横には今でも伊東祐親がいる。伊東の町では、今でも祐親の人生が息づいているのだ。
伊東祐親が人気な理由を探ろう
彼が人気であることはよーくわかった。となると気になってくるのが「祐親がなぜここまで人気なのか」だ。これを解くために次の場所へ向かおう。
実は、伊東祐親と源頼朝の間には大きな因縁があり、それが慕われる大きな理由につながっているとか。
ここでちょっと歴史の話をしたい。
伊東祐親が領主として治めていた期間は、ちょうど頼朝が流されてきたときと重なっている。つまり、「見張っとけ」と言って平氏が頼朝を伊東氏に預けたということだ。
で、思い出してほしい。密会していた音無神社の頼朝だ。ここで問題が生まれる。頼朝が密会していた相手はその「伊東祐親の娘」だったのだ。
それだけなら良かったのだが、果てには頼朝の子を出産するまでの関係になってしまう。
平氏にばれたら無事ではすまない。そう思った祐親は、生まれた子を川に流すことにしたという。
今回向かう「とどろきが淵」は、子を流したと伝わる場所だ。
グオーっと低音がだんだん大きくなっていく。すぐに川べりに到着した。
思ったのは「これは助からん……」ということ。ぐごごごと荒ぶる流れと柱状に割れた崖の美しさと悲しい話が頭でぐるぐると渦を巻いていく。
絵葉書になっていそうな隠れた名所だ。それだけに悲しい出来事との対比に思わず足が震えた。
ただ、人気の理由は見えた。平氏への忠義を貫き通したまっすぐな心根に惹かれているんだ。
伊東祐親のお墓へ
最後に向かうのは、伊東祐親のお墓だ。
伊東祐親と頼朝の話には悲しい続きがある。歴史を思い出してほしい。このあと源頼朝は平氏を滅ぼし、鎌倉幕府の将軍として活躍していく。
すると微妙な立場になるのが、平氏からの命を受けていた祐親だ。いろいろあった末に、祐親は頼朝に捕らえられることとなる。その後頼朝は祐親に許しを出す。
しかし、祐親は平氏への義理を通すために受け入れずに自害してしまうのだ。
首を下に向けると、花々や飲み物や硬貨とお供え物が目に入る。主である平氏のために子を川に流し、誇りを守るために自害までしてしまう。
現代以上に不安定な時代にまっすぐに生き抜いたその姿がとても大きく、まぶしく見えた。
伊東、いいぞ
伊東祐親という町の基礎を築いた一人の武将がいた。彼は840年たった今でも町の人に慕われている。
今回、その生きざまを114年前の本を使ってたどることができた。840年前と114年前と現代。三つの時代はどれも比べられないほど違うはずなのに、今回それぞれの時代の人と同じ場所を歩いたような、そんな不思議な感覚を味わうことができた。これだから歴史と街歩きはおもしろい。
ちょっと固い文になってしまったが、伊東の良さが少しでも伝わればうれしい。