日本で「きつねダンス」が流行っている。ある日、江戸時代の本を読んでいると「稲荷踊り」なるものを見つけた。そのとき脳内の翻訳アプリが動いた。「稲荷踊り -> きつね踊り -> きつねダンス」たしかに! 気になって調べてみると、「徳川将軍が見物した」とか「禁止された」とか次から次へと不思議な記述が出てくるではないか。今回は、江戸時代の「きつねダンス」の正体にせまろう。
※本記事では、現代の物差しで考えづらい怪現象(?)が出てくるが、あえてその是非に触れないで進めていこうと思う。疑問にとらわれるよりも、せっかくなら斜に構えず楽しんだほうが得だ。
令和の日本にきつねダンスが響き渡る
2022年、日本できつねダンスが人気をさらった。……らしい。というのも、野球を普段見ないので、流行語大賞にノミネートされたのを聞いて「そんなに人気があったのか」と興味を持ったぐらいだった。
しかし、のんびり1年を振り返りながら「紅白歌合戦」を見ていると、きつねダンスがバッチリ出ているではないか。とどめを刺されたのが紅白のあとに流れる「ゆく年くる年」だ。いつもは薄暗いお寺をしっとりとした面持ちで放送する番組なのだが、今年は違った。照明カンカンでドラムガンガンの音楽に合わせて踊るケモ耳姿のチアダンサーたち。
これだけ物静かな番組まで乗っ取ってしまうそのきつねダンスの力に、思わずひれ伏した。
そんなきつねダンスに魅了された新年の日のことだ。趣味で古い本を読んでいたとき、突然「稲荷踊り」という文字が目に入った。
のっていたのは江戸時代のお触れが書いてある本だ。
稲荷=きつね、そして踊り=ダンスだ。つまりはきつねダンス! 1841年、つまり182年前にもきつねダンスが存在したということか。
太鼓と鐘の調べに合わせて着物の裾をひらりとなびかせて舞う女性の姿が頭に浮かんだ。これはチアダンスとはまた違った良さがありそう。タイムスリップして見てみたいぞ。
江戸時代の「きつねダンス」は降霊術!?
でも冷静になると変だ。江戸時代にはケモ耳カチューシャもEDMも存在しない。では、江戸時代のきつねダンスはどんなものだったのだろう。
調べたところ、文字通りきつねにつままれた気持になった。降霊術や口寄せの一種だったというのだ。
まずは、福島県のきつねダンスはどのようなものだったのか紹介する。発祥は福島県の可能性が高いらしい(*1)。
狐に代わって告げる人は手の親指を内側にしてにぎり、それに手拭を掛けて持って坐る。その人を寄り人という。その周囲を輪になって五、六人が坐り、または立って回る。その時、狐踊りの歌をうたう。何度かくり返しているうちに狐が寄り人に憑く。そして憑くとこちらで聞きたい事を聞くとお告げがある。
(奥会津南郷の民俗)
お告げ! ほしい。今ポストのダイヤル錠が開かなくて困ってるからどうすればいいか教えてほしい。あと電気スタンドを買おうと思ってるけど選ぶの面倒だからいいの教えてほしい。そう考えると、きつね踊りって便利屋みたいだ。
「そんなどうでもいいこと聞くか?」って思う人がいるかもしれないが、「紛失物のあったとき」にきつね踊りを行ったって記録もあるので正しい使いかた(の一つ)だと言い訳しておく(分類祭祀習俗語彙 オカマカジ)。
*1「地蔵を憑けて伺いを立てる」という風習が福島県のみに存在している。その類似として、オカマ憑け・狐踊りの風習も福島県から始まったのではないかと推測できる。
きつね踊りって人気だったの?
ここで一つ疑問が出てきた。きつね踊りってどのくらい人気だったのだろうか。
最初に読んだお触れでは、きつね踊りが幕府によって禁止されていた。
わざわざ「禁止」と書くならば、それなりには人気があったと考えるのが自然だ。
さっそく人気の証拠を見つけに行こう。
そしてトリビアの泉に「江戸時代にもきつねダンスが流行っていた」って送って金の脳をもらいたい。懐かしくなって金の脳をメルカリで調べたら2770円で売られてて意味もなく悲しくなった。
そんな斜に構えた気持ちで検索すると、とんでもない大物が引っかかった。思わず後ずさった。
その名は、徳川家慶(いえよし)。なんと「徳川十二代将軍」が見ていたという。
きつね踊りは、江戸時代のトップが見物するほど人気だったのだ。
出典の『徳川実紀』は徳川将軍の動静を記録にした本だ。つまり、現代に直すなら「首相動静」に「岸田首相、きつねダンスを見学」と書かれるようなもの。
今のところ、きつねダンスを岸田首相が見たという話は聞かない。
つまり、江戸時代のきつねダンスは令和のきつねダンスよりも流行っていたとこの一面では言えるのだ!
きつねダンスはどうして人気だった?
政治のトップが見るほど人気だったきつね踊り。となると改めて気になるのが「なぜ人気だったのか」ということだ。
しかしきつねが憑いて宣託が下る儀式か。現代に合わせると、地下のイベントスペースでひっそりと行われるディープなイベントみたいなイメージが浮かんでくる。
テレビで例えるなら、「野球番組」ってよりも「(本来の)ゆく年くる年」のほうが近いんじゃないか。果たしてこんなに人気が出るものなのだろうか。
では、何が人をきつね踊りに駆り立てたのだろう。
実は、きつね踊りは江戸に伝わっていくにつれ形を変えていったようなのだ。
先ほど、きつね踊りのミソは「宣託(お告げ)」と書いた。しかし、どうも江戸近辺で行われたきつね踊りには、もう一つ新たな要素が加わっていたようなのだ。
それが「踊り」だ。
※トウガミ=きつね踊りのこと ナカザ=憑かれる人のこと
これはたしかに楽しそうだ。普段物静かな人がキレッキレな踊りをしたりSASUKEでしか見ないようなアクロバティックな動きをしたらそりゃあ盛り上がるに決まってる。
ようやく腹に落ちた。最初のきつね踊りは、憑いたきつねに質問をし答えてもらうものだった。しかし、徐々にきつねに余興をたのんできつねがノリノリでそれに応える、そんなお祭りみたいな場に代わっていったのだ。
パリピになったきつね踊り
江戸できつね踊りが流行ったのはようやく納得した。では最後の疑問だ。最初にきつね踊りを知ったとき、書いてあったのは「きつね踊りを禁止する」という内容だった。
幕府がはっきりと「禁止」と定めるほどだったきつね踊りとは、何者だったのだろう。問題のある踊りのイメージとして裸踊りがぱっと浮かんだがきっと違う。
では、江戸幕府が禁止した「お触れ」の内容を見てみよう。
うん、読めない。終わり。ともいかないので、がんばって太字の部分を翻訳してみた。間違っているところがあったら直します。
大勢が集まり、一人に気を移したら、多くの人がことごとく狂ったように調子にしたがって踊り出し、中には正気に戻らず命にかかわる者もとらえられる人もいた
きつねの神託が下る儀式は、江戸ではすっかりどんちゃん騒ぎになっていたのだ。その果てには、憑いたきつねが戻らなかったり騒ぎすぎて捕まった人もいたと。
つまり、騒がしく危なくて収拾がつかなくなるから禁止します、ということか。
頭に浮かんだのは終電後の繁華街の姿だ。騒ぎ足りない人、酔って意味もなく突っかかる人、そして伸びている人を起こす警察の人。秩序が遠ざかったあの場所を思い出した。今も昔も変わらんなあ。こういう今との共通点を見つけると、歴史を調べていて良かったとしみじみ思う。
今も昔も変わらない
こうして江戸時代のきつね踊りは禁止されていった。ところが、禁止のあとに風習が消えていったかというと、そうでもないという。
皆さんは楽しいことが禁止されたらどうするだろうか。多くの人は「こっそりやる」のではないだろうか。小学生のとき「1日1時間」を超えてゲームをするために親に隠れてやっていたのでよくわかる。
それはきつね踊りも同じだったのだ。きつね踊りの記録は、大正時代までポツポツと見つけることができるという。ものによっては昭和初期まであったとか。
今回調べて思ったのは、今も昔も変わらないということだ。きつねは太古より神社や物語で大活躍してきた。そして人が踊りを楽しむのも不変のもの。そう考えると、令和と江戸の両方にきつねダンスが存在するのも偶然ではないのだ。
200年後の日本では、どんなきつねダンスが流行っているんだろう。