「光の村」に行く

突然ですが、めちゃくちゃいい地名があったんで見てください。

地理院地図より作成)

富士山の見えるところが「富士見」と名づけられるように、地名はその場所を表しているものだ。

で、「光の村」ですよ。

こんな明るい名前の地名があるなんて。

行くだけでハッピーになれる空間にちがいない。

 

思いうかんだのは、自然に囲まれたリゾート空間だ。

「光の村」に行って、森をながめながら温泉でゆったりしたい。

※画像はイメージです。

あとは「光の村」ならではのスポット、たとえばライトアップとかあったらいいな。

虫が明かりに飛んでいくように、今、光の村に吸いよせられている。

 

光の村に行こう

1週間後、僕は「光の村」の入り口に向かっていた。

向かう場所は、リゾートとして有名な静岡県伊東市だ。

この立地、解釈一致です。

 

城ヶ崎海岸駅から国道135号線を歩いていく。

「光」と書いて「希望」と読むお店があった。「光の村」には希望もあると!

30分ほど歩いたところで、「光の村」の近くにたどりついた。

現在地はこんな感じ。細道の先に「光の村」があるようだ。

坂道をのぼった先に希望が待っている。

 

進もうとして、ぴたりと足が止まった。

さっそく見つけましたよ。

「光の村」の文字がいきなりの登場だ。

 

さらに、道を進んで10メートルで再び立ち止まることとなった。

再び「光」の文字と目があったのだ。

電柱には古い地名が残っていることもある。

光南」はなんだろう。ホームセンターしか思い浮かばないのでとりあえず保留で。

「光野」はおそらく「光の村」のことだろう。

 

歩いて1分でこれだけ「光の村」の匂わせが見つかった。

これは勝ちましたわ。

歩幅が大きくなっていく。

 

では、この先にある希望(ひかり)、見せてください。

のんびりのどかな坂道に家がならんでいる。ここなら穏やかにすごせそう。

坂をのぼりきった。地図にある「光の村」は、ここだ。

視界が開ける。

ゲートが目に入った。光の村への入り口だ。

この先に温泉はありますか。

看板になにか書いてあるな。

看板に近づく。「あれ?」と思わず低い声がもれた。

まさかの、工場??

あわてて会社の情報を検索する。

「粗大ごみ」「産業廃棄物」と「光」からあまりに遠い言葉がずらり。(フジタHPより引用)

「光の村」に来たはずなのに、その場所にあったのは「リサイクル工場」だった。

「光」というよりも明らかに陰の(いやそれは失礼か)縁の下の力持ちな存在だ。

 

光の村、どこにいったんですか。

このあとも光を探し、まわりをさまよい続けた。

別の地点から「光の村」を見ると、村どころか家すらなかった。

結局、探し続けて見つけたのは、バス停と電柱だけだった。

光は消え、理想の世界はなくなってしまったのだろうか。

 

うつむいて歩いていると、バス停にぶつかった。思わず力が抜けた。

バス停「理想郷ならあるよ」

違う、そうじゃない。

たしかに探していたけど。

(理想郷については詳しく書かれているサイトがあるのでそちらをご覧ください。)

 

ということで、歩いてわかった結論です。

 

光の村のはじまりは「親子喧嘩」にあり?

光がないなんて、そんな悲しい話で終わらせたくない。

そこで、「光の村」について調べてみることにした。

 

バス停と電柱よりもはっきりとした「光の村スポット」がどこかにあるはずだ。

……あるよね??

 

資料を順番に調べてみる。

なるほどなるほど。

朗報です。かつて、実際に「光の村」が存在したという情報、ありました。

 

「光の村」の歴史について、大事なところを抜き出すとこうだ。

光の村の始まりを知るためには、親子の物語を見る必要がある。

これが波乱に満ちていて、NHKの朝ドラにできてしまうような濃厚さだった。

本題とはちょっとそれるが、紹介させてほしい。

 

光の村ができるまでの物語の、はじまりはじまり。

 

光の村の創業者の一人、岡崎久次郎(おかざききゅうじろう)は、今から約150年前の1874年に生まれた。明治維新が起こり、大きなうねりが生まれた時代だった。

 

その時代の急流に、彼は全力でオールをこいでいった。

いや、「ターボエンジンでぶっ飛ばしていった」というほうが正しいか。

 

というのも、彼の行動力がとんでもなかったのだ。

 

まずは、このエピソードを見てほしい。

結婚式で「ちょっと待った!」ってやる人、現実でもいたのか。

 

そして、「日本一の金持ちになる」と言いのけた久次郎は、実際にその約束を果たしていくこととなる。

自転車の輸入で大金持ちになり、神奈川県の茅ヶ崎に広大な別荘を造った。

さらには国会議員となり、政治とのパイプまでも手に入れることとなる。

こんな光にみちた人生ってあるんだ。

ちなみに、今も残る自転車メーカー「FUJI」の創業者が、彼だ。

 

しかし、そんな大富豪にもうまくいかないことがあった。

子どもの教育だ。

「金持ちにする」とまで言ってプロポーズした彼は、妻(そして子ども)が贅沢な生活をすることに強く出ることができなかった。

その結果、子どもは苦労をせず遊び好きに育ってしまったのだ。

次男三男のギャンブルで借金がかさんだり、長女の男遊びによって彼女の配偶者が自殺に追いこまれたりと不幸が重なり、やがて岡崎の家は没落していくことになる。

 

 

さて、そんな兄弟の中に例外がいた。

のちに「光の村」を父と作ることになる、長男の岡崎俊郎だ。

ようやく、もう一人の主役の登場だ。

長男の俊郎はほかの兄弟とちがい、病弱だった。結核がなおらず高校を中退し、看護師さんに看病をしてもらいながら生活をしていた。

で、ここまではいい。

問題はここからだ。

彼は、父の血を受け継いでいた。どの部分をか。

 

行動力だ。

 

どうしてこうなるの!?

突然の駆け落ちに、もちろん父は激怒する。

 

父に反発した俊郎は、「相続を倍にしよう」と総理大臣に要望書を手渡したり、「靴磨き」をして全国を回ったりと、父顔負けの行動力を見せていく。

また、活動を続けていくうちに、彼は「慈善活動」にのめりこんでいくことになる。

 

父のような強い人でなく、弱い人の力になりたい。

 

やがて、その本気は父に伝わった。

二人は和解し、父は息子の活動を支援するようになっていった。

 

そんな親子の活動の集大成がある。

「光の村」だ。

 

困っている人を助けるような理想の村を作りたいんです!

わかった。お金は私が用意しよう。

 

大富豪の父と苦労人の息子、彼らの確執をのりこえて生まれたのが光の村だったのだ。

 

「光の村」は消えていた?

いい話だった。めでたしめでたし。

満足してページを閉じた。閉じたまま固まった。

結局、光の村はどうなったんよ。

 

再調査開始だ。

その結果見えてきたのは、「光の村は戦時中に消えた」という事実だった。

 

光の村の住民の多くは若者だった。

その理由は、光の村を作った目的にある。

困っている若者を「光の村」に住まわせ、生活をとおして「農業の技術」を教えこむ。ゆくゆくは光の村を離れて、地元にその技術を伝えてほしい。

光の村は、そういう目論見で作られたものだった。

 

しかし、太平洋戦争が始まり、光の村の若者も戦争に駆りだされていくことになる。

こうして運営は成りたたなくなり、戦時中には活動が停止してしまった。

 

そして、戦後をむかえても、この地に「光の村」が戻ってくることはなかった。

 

空白の50年を探れ!

戦後、光の村は伊東から消えてしまった。

では、「光の村の跡地」には何ができたのだろう。

 

ちなみに、光の村だった場所に現在のリサイクル工場ができたのは、意外と最近らしい。

1987年 伊東市富戸1033-8に移転
     ※光の村と同じ住所
株式会社 フジタ 会社概要より引用)

つまり、光の村が消えてから工場ができるまでに空白の50年間があることになる。

その間に何があったのかわかれば、それが「光」を探す手がかりになるはずだ。

 

試しに当時の地図をパラリと開く。

「光の村」の右上(北東)を見て、固まった。

「コスモランド」ってなに??

まさかの、「光」の次は「宇宙(コスモ)」が出てきました。

 

番外編:光の村の近くに「光の国」があった?

「コスモランド」を翻訳すると、「宇宙の国」となる。

「光の村」や「理想郷」と聞くだけでお腹いっぱいなのに、さらに壮大な名前が出てくるとは。

 

しかし、コスモランドのインパクトは名前だけではなかった。

 

当時の写真があったので見てほしい。

農業技術研究 19(8)(224)より引用)

あまりに「光」な見た目じゃないですか。

東京のど真ん中にあっても目立ちそうなぐらい光ってる。

 

まだ終わらない。検索するとこんなウェブサイトが出てきた。

その名も「光跡」。

「光の村の跡」を探しているときにこのサイトが出てくるとは、もはや偶然の域をこえている。

 

では、「光の村」と「コスモランド」はどのような関係だったのだろう。

さらに細かく見ていったところ、わかりました。

 

いやこれだけお膳立てしておきながら関係ないんかい……!

 

では、なぜ「コスモランド」は「光の村」の伏線みたいになっていたんだろう。

ちょっと脱線となるが、「コスモランド」と「光跡」の正体を見ていこう。

いそがしい人は読み飛ばしちゃってください。

 

まず、「コスモランド」の正体は「遊園地」だった。

その遊園地のシンボルが、写真にあった「地球儀大温室」だったのだ。たしかにこの外見ならばっちり人を呼べそう。

コスモランド全体の写真があった。やっぱり地球儀が目立ってる。(@Pressより引用)

 

次は、なぜ「光跡」というウェブサイトが出てきたのかだ。

メインページを見ると、その理由がわかった。

ジュワッ(HPはこちら

実は、コスモランドはウルトラマンの聖地でもあったのだ。

かつて地球儀大温室が制作スタッフの目にとまり、コスモランドで撮影が行われたという。

そして、ウルトラマンの聖地がまとめられたホームページ「光跡」にコスモランドがのった、と。

 

ウルトラマンは「光の国」から来たという。

つまり、「光の国」の住人が「光の村」の近くを通っていたということになる。

光の村とは無関係だったが、まさか「コスモランド」が「光の国」にまでつながるとは。

「コスモランド」は「伊豆ぐらんぱる公園」と改名し、今も続いている。イルミネーションが評判らしい。光だ!

 

「光」を受けついだ農場

さて、本題に戻りましょう。

改めて、戦後の「光の村 跡地」はどうなったのか。

調べていくと、今度こそ情報が出てきた。

どうやら「農地」になっていたらしい。

 

その運営者が――

 

私が「光の村」の事業を引き継ぎます!

 

だっ誰?

 

名乗りおくれました。俊郎の息子の岡崎周(ひとし)です。

 

まさかの、三代目の登場だ。

 

戦後、「光の村」は立て直しをはかる必要があった。

安定した運営をするためには、光の村の目的のうち「農業で生計を立てる」ところに力をいれる必要がある。

そこで、利益がでる農場事業をおこなうために計画を練ることとなった。

 

「みかん」の栽培と「養鶏」を組み合わせることで利益がでる農業を目指します!
みかんは伊豆の名産ですからね。でも畑には肥料がいる。そこで養鶏です。鶏ふんを肥料に加工して使うことで節約ができます。で、やるなら最新式がいいですよね。コンピュータ制御にすればたくさん鶏を飼えるはず。あとは畑も増やしたいな。ぶどうとかどうでしょう。養豚もしてみたい。そのためにもまずは溶岩質のこの地に水を引いて土を足して耕さないと。うまくいったらみかん狩りをやるのでぜひ来てね。

 

こうして、「光の村」は農場として復活をとげる

――はずだったが問題がおきる。

「光の村」は財団法人だったので、利益を求めることができなかったのだ。

そこで、独立した組織として、岡崎俊郎の息子である周が農場を経営することとなった。

 

ようやく準備がととのい、1960年に「光の村」は農場へと姿を変えた。

その名も――

鶏友 (382)より引用)

光南農場だ。

あれ? この名前どこかで聞いたような。

電柱で見たのと同じだ!

しかし、この事業は挫折することとなった。飼料の高さと卵の安さ、オイルショックなどで経営が安定しなかったのだ。

 

その結果、1980年代前半に光南農場は事業をたたむこととなった。

そして今、その場所はリサイクル工場となっている。

 

残った光を探せ!

光の村探しはふりだしに戻ってしまった。

ここまできたら、手がかりが何も見つからなくなるまで探してやろうじゃないか。

 

キーボードをたたき、インターネットの海をおぼれそうになりながら泳ぎ続ける。

一つ、あやしいものを見つけた。

光南農場」の企業情報があったのだ。

活動しているかは謎だが、どうやら登記はまだ残っていると。

ページを開く。「ほほう」と声がでた。

会社の所在地がのっているではないか。

場所は、かつて岡崎一家の別荘があった因縁の地「茅ヶ崎」だ。

これは、行ってみるしかないでしょう。

 

いざ、茅ヶ崎

ということで、光を求めて神奈川県の茅ヶ崎にやってきました。

 

茅ヶ崎は海の街だ。

住民はサザンオールスターズを信仰しており、

 

どんな真面目なキャラクターも海にそまる。

 

タイルも海にゆられて形を変えていく。

 

街の空気感につられてちょっと足どりが軽くなった。ここなら光があるかも。

 

商店街を左に曲がり、住宅地に入る。「光南農場」はこの先だ。

住所の場所に着いた。

 

スゥーっと息を吸って、そのまま立ち止まった。

そうか。

 

結論を言います。

光南農場は、なかった。

左側にある家のひとつが光南農場の住所だ……。

手がかりはついえた。もう、あきらめるしかないのか。

 

帰る前に、もう一度ぐるりと首を回して景色をながめた。

最後にこの景色を焼きつけておこう。

 

突然、ぬいつけられたように視線が一か所に固定された。

思わず足が動いた。

看板に駆けよる。

キミは、ひかり……?

光南農場の場所に、「光」のつくサービスがある。

これは、偶然の一致なのだろうか。

 

もう少し周りを調べてみよう。

 

歩きだして30秒後、足が止まった。

「おぉ」と声がもれた。

よっしゃと手をにぎった。

看板にある文字はもしかして。

「光の村」が、いたのだ。

間違いない、光を見つけた!

 

なぜ茅ヶ崎に「光の村」があるのか。

その歴史は、戦後まもない時代にさかのぼる必要がある。

 

光の村は、「福祉」と「農業」の二つから成りたっていた。

その後、戦後に「光の村」の立てなおしを図り、農業部門が「光南農場」として姿を変えることになった。

 

実は、このときに福祉部門も姿を変えて生き残っていたのだ。

光南農場」で農場部門をがんばります

頼んだ。「光の村」を茅ヶ崎に移転させて福祉活動も続けることにするよ

 

岡崎の家は没落し、茅ヶ崎の別荘は売られていった。しかし、その土地の一部はまだ残っていた。

そのため、福祉部門の移転先として茅ヶ崎が選ばれたのだ。

光の村は、伊東から茅ヶ崎へ場所をかえて生き残っていた。

そして今日も、「光の村」は子どもや障がい者、お年よりに手をさしのべ続けている。

 

ということで、最後の結論です。

 

参考文献