神津島は神秘が「息づいている」島だった

今年のGWは伊豆諸島の神津島に行ってきた。島の雄大な自然を見たいと思って調べたのがきっかけだったのだが、現地で一番興味深く感じたのはその文化だった。「神津」という格好いい名前に負けない神秘的でたくましい興味深い島だったので紹介したい。

神津島のおさらい

まずは簡単に神津島を紹介する。神津島は東京都内から184km南に位置する周囲22kmの島だ。


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 拡大するとこんな感じ。


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 島には険しい山が複数あり、住民は島の西部に2000人ほどが住んでいる。ダイビングや登山として毎年多くの観光客が訪れているという。また、島というと水不足で悩む場合が多いが、神津島は水が豊富で湧き出ている箇所も複数あるという。

到着

 さて、今回はジェット船で出発し、最初に目に飛び込んできたのがこれだ。

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とても険しい……。割と新しい崩落跡が見えた。

到着は島南東部の三浦港。ここからお宿の人に送迎してもらい、村がある西部に向かう。

神の集う島?

さて、町に到着した。神津島の集落は4平方kmと狭く、住居、家、行政すべてがそこに集中している。海岸には前浜という海水浴場があり、夏は水泳客で賑わうそうだ。まずお出迎えしてくれたのがこの像。

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柄杓を持っている人に5人が集い、1人が寝ている。

説明書きを読むと、神津島の伝説を表現しているとのこと。

その昔、伊豆諸島の中心である神津島の天上山に、島々の神々が集まり会議をしました。一番大切な会議は、命の源である「水」をどのように分配するかでしたが、そこで次の朝、先着順に分けることになりました。

(中略)

最後に寝坊した利島の神様がやってきたときには水はほとんど残っていませんでした。それを見た利島の神様は怒り、わずかに残った水に飛び込んで暴れまわりました。この水が四方八方に飛び散り、神津島ではいたるところで水が湧き出るようになったと言われています。

神津島観光ガイドより引用

神話の世界が残っているとは面白そう。このときはそれぐらいの感想だった。

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天上山は島の中心にそびえる島最高峰の山。町からよく見える。

現在も続いている信仰

さて、まずはのんびりと街を歩いてみる。そこで驚いたのは、石仏の多さだ。

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道を歩くと100メートルもいかずに石仏が見つかる。

しかもどれも丁寧に屋根が作られ、お供え物が置かれている。

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村の中心だけでなく、少し外れた道沿いにも鎮座していた。

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ここにも!

お地蔵さんをはじめとした石仏は、都会を歩いていても珍しいものではない。しかしそれはたまに目に入るものであり、供え物がないものも少なくない。正直形骸化している部分があると思う。

一方神津島ではどれにも花や小銭が供えられている。しかもお地蔵さんだけでなく、風化で文字が読めなくなっている石碑も同じように祀られている。そう、神津島では今もしっかりと信仰が残っているようだ。なぜなのだろう。

今回の旅の目的が決まった。この信仰の理由を突き止めよう。

このあと「おたあジュリアの十字架」を見たり景色を眺めながら1日目が終わった。

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江戸時代にキリスト教を棄教せず信仰を貫き通したため神津島島流しになったおたあジュリアを偲んで建立された十字架。

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神津島といえば海の幸。夕食のタカベが美味しかった。

神話の舞台に登る

2日目は神津島の定番観光コース、天上山に登る。天上山は 神津島最高峰の山で、838年の噴火で現在の形となった。572m とあまり高くはないが、高山植物や砂漠、池、そして景色など見所が多く人気のスポットとなっている。

宿から登山口まで30分程度だったため、宿から歩いて登ることにした。

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この道でもお地蔵さんが祀られている。

登山口(黒島登山口)に到着。いよいよ登山が始まる。

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階段が整備されてはいるが、結構急で怖い。

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町がよく見える。町の周辺以外は山だった。

長く続いた坂道を登り終わると、そこには植物がびっしりと生えた平地が続いていた。

天上山は頂上付近に1周できるハイキングコースが作られている。場所によって多彩な顔を見せてくれるため歩いていて飽きることがなかった。

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高山植物が突然なくなった。そのギャップに自然の神秘を感じる。(裏砂漠)

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不動池。 中央には剣と石の竜王が祀られているという。

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ガレ場っぽい場所もあった。景色がきれいで写真を撮れば絵になる。

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天上山山頂。360°の大展望が広がっている。近くの式根島と新島も見えた。

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不入が沢(はいらないがさわ)。水の分配に神様が集まった場所といわれている。

それぞれのスポットの距離は近いのにまったく違う表情を見せてくれる。

木が一本も生えない荒野、のどかな雰囲気の池、そして島が一望できる絶景。ここまで幅広い表示を見せてくれる山はなかなか見つからないと思う。実際に登ってみて、かつて神様が集い昔から神聖な場所として大切にされてきた理由が自然と理解できた。

そんな神津島最高峰の天上山は町のどこからでも目に入る。生活しながら威厳のある白い山を見上げ日々の平穏に感謝する、そんな生活が頭に浮かんだ。

信仰の理由が少しわかった気がした。

大正時代の大工事

 一通り堪能したので帰ろうとしたときに気になるものが目に入った。

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大正時代の治山工事の跡があった。いい写真がなかったので看板で。

昔から土砂災害が多いため、大正15年に石垣を築いたという。大正時代にこの離島で日本最大級の工事が行われるという時点で、いかに災害が大きな問題だったのかが想像できる。

周囲はほぼ垂直の崖が連なっている。工事の場所から下を見下ろしてみると、険しい景色が見えた。

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治山工事跡(写真左下)の延長線上に町が見える。これは……。

もしここが崩れたら町まで届きかねないのではないか。これは確かに重大な問題だ。

そして驚くべきことに、その問題は今も続いていた。

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先ほどの写真を拡大した。砂防ダムが溢れそうになっているではないか。

砂を食い止めているダムの延長線上には町がある。この現代でも自然を制御しきれていないその姿に自然の恐ろしさを感じた。

 

これでコースは全部回った。下山しよう。下山路(白島登山口方向)は行きよりも緩やかで歩きやすかった。

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目前に広がる雄大な景色を眺めながらの下山が気持ちいい。

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帰りの道にも石仏など信仰の証が散在していた。厳粛な気持ちで鳥居をくぐる。

 登山口まで降り町まで歩く。帰り道に先ほどの砂防ダムの下を通った。そこでは新たな工事が始まっていた。

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頑張ってくれよ。自然とそう念を送っていた。

神が集まった伝説にふさわしい天上山。そして島の土砂による災害と今も治山工事が続くほどの過酷な環境。信仰の理由が自然と心に入ってきた。

砂防ダムのところに石仏があったら平穏を祈っていたと思う。

郷土資料館で答え合わせ

さて、最終の3日目。信仰の理由を確認するために郷土資料館へやってきた。ここなら天上山の伝説や土砂災害についての展示を見ることができるはずだ。

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郷土博物館の写真を撮り忘れたので近くにいた猫さんの写真を載せます。

郷土資料館はこじんまりとした2階建ての建物で、入場料は300円。

そこで目にしたのは想像をはるかに超えた過酷な災害の歴史だった。

火山

838年。神津島で大噴火が起こった。火山灰は近畿地方まで到達。現在の天上山の形はこれにより形成されたものだという。当時の住民は伊豆に避難したらしい。幸いなことに以降噴火は起こっていない。

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神々が集った不入が沢(はいらないがさわ)は噴火口の跡でもあり、その大きさが噴火の激しさを物語っている。

飢饉

神津島は海産物に恵まれている反面、急斜面のため畑が少ない。今回島を歩いていても畑の少なさには驚かされた。そのため、複数回大飢饉が起こっているという。驚いたのは、近代化が成された明治23年(1890年)にも起こっているということだ。この飢饉では283人が亡くなった。

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漁港の中心に神社がある。行き来が少ない昔は漁業が島の命綱だった。

火事

街が1箇所に集中しているため、火事が起きると甚大な被害が出てしまう。そのため火事対策が村での重要事項になっており、消防団の服装も展示されていた。昔から度々火事が起こっており、一番被害が大きかったのは飢饉から間もない明治32年(1899年)。なんと村の310戸のうち300戸が焼失してしまったという。

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第二次世界大戦の空襲も受けている。神社に焼夷弾が展示されていた。

土砂崩れ

またもや明治の40年(1907年)。今度は豪雨による山崩れが町を襲った。これによる死者は16人。家屋も大きな被害を受けた。さらに大正3年(1914年)にも土砂災害が発生。これらがきっかけで天上山の治山工事が始まった。

しかしこの災害は今も収まっていない。1988年にも大雨による土砂災害で阿波命神社の本殿が壊滅。さらには2000年。震度6弱地震が複数回神津島を襲った。地震の影響でがけ崩れや土砂崩れが相次ぎ、今でも爪痕が残っている。船から見えた崩落もこの地震で起こったものらしい。

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1997年に完成した最北部にある大黒根トンネル。その先の道が崩落したため現在でも立ち入り禁止となっていた。

神津島は様々な困難を乗り越え今に続いてきた。そしてその困難は今も一部は続いている。町の至るところに鎮座している石仏には、災害を鎮め明るい未来を祈る先人の思いが込められていたのだ。

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町にあった石碑。2001年には当時の天皇皇后陛下が視察・お見舞いに訪問された。

旅の終わり

旅が終わる。

険しくも神秘的な山。山の直下の狭い土地で長い間営まれてきた町。丁寧に祀られている石仏たち。改めて神津島の町を見返すと、今までとは違うとてもかけがえのないものに見えてくる。この島で精一杯生きてきた先人の方々に思いを馳せながら船に乗り、島を後にした。神津島、ここまで興味深い島だったとは。本当に来てよかった。

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島のスーパーで買っておいた島寿司が美味しかったです!

おまけ

最後に今回は紹介できなかった神津島の面白いところを軽く紹介して締めとしたい。

  • 未だ未解明!? 縄文時代の黒曜石の謎
  • 先祖から伝わる江戸時代の沈没船は本当に存在した
  • 観客が魚役? カツオ釣りのお祭り
  • 魚と明日葉が美味しい

神津島、オススメです。

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海もきれいでした!
参考資料