謎の地名「ヨシッ堀田代」に行く

「ヨシッ堀田代」という場所があるらしい。頭に浮かんだのはヘルメットをかぶって指をさす生き物だ。

グーグルマップでも存在が確認できる。しかしレビュー数は0。

いったい何が「ヨシッ」なのか。謎めいた名前の場所には何がいるのだろう。

その真相にせまるため

我々はジャングルの奥地へと向かった。

 

いざ現地へ

ヨシッ堀田代へ行くことにしたのはいいが、たどり着くまでが意外と長かった。

ここからはヨシッ堀田代に着くまでの工程をダイジェストでお送りします。

 

朝の6時。無理やり頭を起動させ、駅に向かって足を運ぶ。

朝の7時、バスタ新宿で高速バスに乗り込む。

出発だ。

高速バスに揺られ

乗り合いバスに乗り換え

出発から5時間後、ようやく入口がある小屋に着いた。

ここからは徒歩となる。時間は12時。いよいよ森へ出発だ。

ということで、今回の舞台は尾瀬です。

尾瀬と聞いてどのようなイメージが浮かぶだろうか。知っている人は、池や草原が広がっているのどかな光景が浮かぶと思う。

しかし、その予想は裏切られることとなる。歩き出してすぐ異変に気づいた。

ひたすら続く森を歩いていく。

先が見えない山道か。どうやら、簡単にいい景色には出会わせてもらえないらしい。

足を進めていくと、途中で見慣れないものが目に入った。

「鐘」だ。

観光地でカップルが鳴らすやつがなぜ森に……?

説明を見るとクマよけ用に鳴らしてくださいとのこと。バチで鐘を叩くと「カーン」と力強い声が響いた。

チリンじゃないんだ。でも実用的な音だ。

この鐘、また出てくるので覚えておいてください。

 

開けた視界

1時間後、足が止まった。

山小屋を通りすぎたあとの景色が

これ!

思わず手を空に広げて走り出したくなるような、「人間はちっぽけだ」とかありきたりな言葉が頭に浮かぶような大パノラマが現れた。

待ってました。

沼地なので池や川が順番に出てくる。無限に歩いていられる。

ここから「ヨシッ堀田代」までは1.5時間だ。

ひたすら気持ちいい景色を進んでいく。

ここを歩いていると大体のことを許せる気持ちになってくる。

しかし、こんな場所にある「ヨシッ堀田代」って何かあるんだろうか。もし何もなかったらどうしよう。

雨が降ってきた。

雨具をかぶる。

嫌な予感がする。

 

ヨシッ堀田代に着いたが……

時間は14時すぎ。そろそろヨシッ堀田代に着くはずだ。

ヨッピ吊橋を超える。この地名、ヨシッと近いぞ。

そしていよいよ、地図にピンが立っていた場所に着いた。

何もない……。

そこには「草原」がひたすら広がっていた。

けものフレンズ」のさばんなちほーと似てるような?

わーい! いいけしきー! と現実逃避中。

撮るものがなさすぎて草の写真を撮った。

いや、まだあきらめるのは早い。何かあるはずだ。空港のレーダーのように首を回して探し回ると、一つあった。

あの、クマよけの鐘が立っていた。

バチをよく見てほしい。

金槌だ!

ここにきて突然の工具。これは、あの猫がいた証拠なのでは! よくわからんけどヨシ!

叩いてみる。

「カーン」

NHKのど自慢」でサビに入った瞬間に鐘が鳴って退場した人のやりきれない顔が浮かんだ。

今ならちょっと、気持ちわかるよ。

 

調べられない……!

こうなったら山小屋に着いてからインターネットの力を使って調べよう。

ヨシではなく「"ヤシ"ろう小屋」に到着だ。

しかし、一つ誤算があった。ここは、民宿でなく「山小屋」だ。スマホを開くと、出迎えてくれたのは「圏外」の二文字だった。

一応Wi-Fiはつながるが速度は3Gレベル……。画像が上からゆっくり現れる趣きを久々に味わうこととなった。

いとおそし。

夕食! 4人で一つのおひつを分け合う方式が山小屋らしくて良い。しっかりお代わりしたらほかの人の分が少なくなりちょっと申し訳なかった。

しかたない、明日急いで帰って調べることとしよう。

おやすみなさい。

 

快晴の朝

そして次の日。天気は良好。

霧がかっていてなかなか幻想的。深く息を吸った。

ただの草原でさえも絵になる。

急ぎ食事をすませ、出発だ。早く人里に戻って調べたい。

すたすたと足を動かす。霧が晴れた。

すっかりいい天気!

雲と水面ってなんでこんなに映えるんだろう。

天国ってこういう世界だったりするんじゃいか。ぽかぽかした中で絶景を歩いていると、現実と夢の境界線があいまいになってくる。

時間に追われる生活に帰りたくなくなってきた。

早くヨシッの謎を知りたい。でも、もっとのんびりしたい。

ほら、腹は減っては戦はできぬっていうし。

窓から見える景色がこれ。ちなみにまだ圏外です。

 

旅の終わり

お店でボーっとしてから、再び歩き始めて1時間。人里が見えてきた。

護岸だけでも「文明だ!」って騒ぎたくなるこの感覚、登山する人ならわかると思う。

この橋をこえればゴールだ。

こうして、ゴールの茶屋へ到着した。

スマホを見る。一日ぶりに見る「4G」の文字がそこにはあった。

さあ、調査を始めよう。

ゴールの建物にある地図にも「ヨシッ堀田代」があった。

 

明らかになった正体

由来を調べるときに重要なのは、「古い文献をたどること」だ。昔の本に記述があれば古い地名だとわかるし、なければ最近できた地名だと目星が付く。

ではヨシッ堀田代はどちらか。

意外なことに、古い地名だった。

 

デジタル図書館で調べていると、1960年の尾瀬の本を見つけた。そこに手がかりがあったのだ。

ヨシッ堀田代はこのあたり。(『尾瀬・日光 (アルパインガイド ; 第10) 』より引用)

細かく地図をなぞっていく。思わず「そういうことか」と声が出た。

地図の「地名」をよく見てほしい。

「田代」という地名がたくさん出てくるのがわかるだろうか。

このあたり一帯は「田代」と呼ばれる場所だった。

そして正しい読みかたは「ヨシッぽり・たしろ」だったのだ。

 

では、「ヨシッ堀」とは何だろう。それも地図にしっかりあった。

川として描かれている!

つまり、ヨシッ堀田代は「田代にある、『ヨシッ堀』という川が通っている場所」という意味だったのだ。

 

ヨシッって何よ!?

深呼吸してすっきり。

10分後、頭の中で猫が荒ぶり始めた。

よく考えると、地名に「ヨシッ」が入る理由の説明ができていない。なぜ「ヨシッ堀」なんて変な名前がつけられたのだろう。

こういうときはもう一度本の世界にもぐろう。先ほどの地図の横には、地名の説明が文章でもしたためられていた。

お、ヨシッ堀田代もある。どれどれ。

ヨシッ堀田代と名づけられるヨシの生えた湿原を進み、ヨシッ堀の小さな流れを渡る。

答えあった。

ヨシッ堀の由来は植物の「ヨシ」だったのだ。

では「ヨシ」ってどんな植物なんだろう。調べると、ススキみたいな穂の植物が出てきた。

ja.wikipedia.org

これ、見覚えありますね。

ヨシッ堀田代で撮った写真にも、

ヨシッ堀田代の鐘を撮ったときにも、

なんなら朝に撮った写真にもヨシがいるではないか!

ヨシッ堀田代で「よくわからんけどヨシ!」と言った自分が恥ずかしい。

ヨシッ堀田代には「ヨシ」があった。

鮮やかな伏線の回収っぷりに、思わず「よしっ」とこぶしを握った。

 

すっきり

こうして謎は解けた。すっきり。

帰りのバスに揺られながら頭に浮かぶのは、尾瀬の景色だ。

地名をたどるのは楽しかったが、それ以上に尾瀬は歩いていてひたすら気持ちよかった。

真夏でも涼しくていい景色があって休憩どころもそれなりにある。

尾瀬、オススメです。

ただし、あくまでも尾瀬は山だ。装備はきちんと整えてほしい。

くれぐれもご安全に!

また行きたい!

文学フリマ初参加! 『「國威宣揚」と書いてある石碑の本』を頒布します

 

新しいことをする前にはちょっと憂鬱になりつつも、何かが起こるのを期待して気持ちが波のように揺れていく。

今、気分はsin関数だ。

11月11日、初めて「文学フリマ」に参加します。

c.bunfree.net

 

作った本の概要

今回、初めて同人誌というものを作った。その名も『「國威宣揚」と書いてある石碑の本』。

國威宣揚碑、知っているだろうか。簡単にいうと、「戦前~戦時中に建てられた国旗掲揚台の一種」だ。

戦時に国民の意識を上げるために各地で建てられた國威宣揚碑。しかし、戦後は一転して邪魔ものとなり、多くは撤去されることとなる。そんな中、あるものは文字を削られながら、あるものは目だないようにされながらも残ったものがあった。

本誌では、東京に残っている國威宣揚碑42か所を実際に訪れ、その歴史を丁寧にひも解いていく一冊となっている。

c.bunfree.net

 

思い入れ

國威宣揚碑に出会ったのは2021年のことだ。散歩していると突然道をふさぐように現れた謎の石碑。それが國威宣揚碑だった。

何者なんだろう。気になって調べ、記事にまとめた。

tenyard.hatenadiary.jp

書いたあとに心残りがあった。「おもしろ記事」としての体裁を優先したため、國威宣揚碑のほんの表層しか紹介できなかったからだ。

もっと深く調べたい。もっと深く知ってほしい。そんなときに出会ったのが「文学フリマ」という存在だった。

よし、文学フリマを目標に國威宣揚碑の本を作ろう。

こうして、國威宣揚碑を回る日々が始まった。記事を書いた当時は20か所回っただけだったのだが、今回は知りうる限り都内の國威宣揚碑を全部回ることができた。全部で42か所もあった。

こうして生まれたのが今回初出品する同人誌『「國威宣揚」と書いてある石碑の本』となる。

 

来てくれると喜びます!

自分で好きなものを作り目の前で買ってもらう。あまりにも初めてのことだ。果たして気に入ってくれる人はいるのか。そもそも興味を持ってくれる人はいるのか。

もしかしたら、会場で生まれたてのシカのようにぷるぷる小さくなっているかもしれない。

なので、もし興味のある方は来ていただけると嬉しいです。喜びます。

何なら本に興味なくてもいいので! 僕が管理してる「こういうニュースだけ見ていたいbot」の話を聞きたいとかでも全然いいので!

それだけ不安と期待が交っている中ですが、まあうまくいかなくてもいい経験にはなると思うので、考えすぎずに楽しんでいこうと思います。

では、11月11日、よろしくお願いします!

 

出展の情報

イベント名:文学フリマ東京37
サークル名:足跡を辿る
作者:あわうみ
ブース番号:せ-51
本の題名:「國威宣揚」と書いてある石碑の本
価格:500円

 

※「國威宣揚碑を全部回ることができた」と書いたが、府中にも1基あることを入稿後に知ったので、厳密には1か所行けていなかったりする。今度行かないと!

20万円の地図を買って見つけた「新宿の妖怪」の正体にせまる!

ある日、20万円の地図本が95%引きで売られているのを見つけた。江戸~明治時代の地図だ。思わず買った。

1週間後、巨大な地図がとどいた。
次の日、読んだだけで筋肉痛になった。

今回は、定価20万円の地図にふり回されながらも、本を使いこなして「新宿の妖怪」の正体をあばいたお話。

 

フリマアプリの掘り出し物

いつものようにフリマアプリをスクロールしていると手が止まった。

いかにも「掘り出し物感」があったからだ。

もっとよく見てみよう。

画像を拡大する。スマホを落としかけた。

現在の税率ならば20万3500円! それが9000円……?

数字にして95%引きだ。安楽亭のワンコインランチ(500円)が25円で食べられるって考えるとすごくないですか。

 

これは、売りきれたら後悔するやつだ。

ダメ元で値切ってみたところ1000円安くなった。

本は大きめらしい。でも問題なしだ。

この割引率ならどんなものが届いても笑顔で受けとる自信がある。

 

購入ボタンをぽちり。

本が届いたらどうしようかな。地図と一緒に散歩して昔と今を比べたりしたい。

 

予想外の到着

2日後、高らかにピンポンの音が鳴り響いた。

「お届け物でーす」

スキップして玄関へ足を運ぶ。

ようこそ、20万円の本。よく来てくれた。

ガチャリとドアを開けると――

「塗り壁」みたいなのが届いた。

 

受けとるときに腕の筋肉がぎゅっとなった。予想外の重さに思わずふらめく。

これ持って散歩に行くの???

そもそもこれは本なのか。家電と間違えてない? 

受け取ったときの引きつった笑顔のまま2分固まった。

 

出品者のコメントが今、頭の中でぐるぐる回っている。

 

「私には使いこなせなかったので」

「大きさもそれなり」

 

冷房がきいているのにシャツが汗でにじんでいく。

 

苦労の開封

とりあえず部屋へ運ぼう。

ドアの幅が足りず本が壁にぶつかる。ななめにして通る。

 

ちょっと散歩が好きなだけの一般人にこれが使いこなせるのだろうか。

 

考えていても仕方ない。とりあえず開けてみよう。

本を取り出そうとして、思わず本の周りをぐるぐる回った。

普通の本とは勝手が違う。

 

適当に取りだすと保管用の段ボールを傷つけてしまうし、20万円の本を万が一でも取り落とすことがあったら笑えない。

5分後、ようやく取り出し方がわかった。キーワードは「牡蠣」と「重量上げ」だ。

 

まずは、牡蠣をこじ開けるように重い本のはしっこを持ち上げ、手をねじこむ。

 

次に、重量上げの要領で本を持ちあげる。

本を読むために踏んばることってあるんだ。

 

段ボールをどかしてゆっくり床に置けばようやく作業完了だ。

見てほしいこの足の開き具合を。

 

箱の中身には、青い身がぎっちり。

このつまり具合は上等な牡蠣だ。同じなのは値段が高いこと。違うのは重さが10キロあること(あとから測った)。

 

さあ読んでいこう!

ちなみに次の日筋肉痛になりました。

 

江戸の地図は自由

この本は、江戸時代~明治時代前半の東京都心の地図がまとめられたものだ。

つまり、時代によってさまざまな姿の東京を見ることができる。

 

まずは江戸時代をながめていこう。

江戸時代は、地図を描くルールが決まっていないせいか、なかなか自由な姿を見ることができる。

トライアングルな町と畑があったり、

 

中二心をくすぐられるお寺があったり、

 

ひたすら「町」が続いていたり。

 

予想していなかったのが、江戸時代の地図でも今と同じ苗字がバンバン出てくるところだ。

会社の座席表か?

 

新宿には「老婆王」なるものがいた。気になる!

 

本を開いてみてわかったことがある。読むときには、「低めのベッドの上」から見るのがちょうどいい。

適度に高い位置から地図全体をながめることで、グーグルアースを見ているような感覚になれるのだ。

20万円の本を買おうとしている人はぜひ参考にしてください。

 

大きい地図を開いてみれば
文明開化の音がする

明治時代に入ると西洋の香りがただよってくる。

新橋に鉄道駅ができていた。これが横浜まで続く日本初の電車だ。

 

こちらの川には「渡し」があった。江戸の風も残っている。

 

浅草文庫って何だろうと調べてみると日本初の図書館だった。ちなみに明治前半のベストセラーは『学問のすゝめ』だとか。

明治の人、意識が高い説。

 

あとは当時の有名人の家がのっていたりする。教科書で見た人が生きていた証拠がはっきりと書かれていると親しみが出てくる。

友達の家を調べているときと同じ感覚だ。

 

初代総理大臣伊藤博文の家の裏には製紙工場があった。

うるさくすると総理大臣から苦情が来る工場か。

 

あの木戸孝允の家の前には競馬場が!

 

さらに、競馬場をはさんだお向かいには3代目総理大臣を務めた山縣有朋がいた。二人のご近所づきあいがあったのかな。

 

まだ終わらない。

山縣有朋の家の下には、あの進学校開成」が!

RPGのラスボス戦でよくある連続戦闘にも引けをとらない密度がここに広がっている。

 

突然の異物

やはり古地図は楽しい。

しかし、それだけじゃ足りない。この地図を「使いこなせた」と言えるようなことをしたい。

 

そんなことを考えながら残りのページをめくっていると、突然ガチリと身体に力が入った。

 

目をそらしたい、でもそらせない。

そんな異形がこちらをにらんでいる。

目が合った。

明治時代に妖怪がいたというのか。

 

この姿、「ゲゲゲの鬼太郎」で見たことある。

バックベアード」を知っているだろうか。

水木しげる 世界の妖怪大百科』より引用

コラ画像「このロリコンどもめ!」の元ネタといえば知っている人もいるだろう。

 

江戸時代にきつねが化けたり妖怪におそわれた話は多くある。

しかし、ガス灯がともりレンガづくりの建物が増え始めた時代に、こんな化けものが存在していたというのか。

よし、やることが決まった。

この地図を使って妖怪の正体をつきとめてやろう。

謎:地図にある妖怪の正体は!?

 

調査のルール

さて、調査だ。今回、地図を使いこなすためにルールを一つ加えたいと思う。

それは「インターネットの力を使わない」こと。最近はネットを使えば江戸時代の妖怪の記録もたどれる時代だ。

せっかくなのでネットで見れる江戸時代の妖怪の例を。声が反射する「やまびこ」も妖怪と思われていた時代があったのか。(百鬼夜行 3巻拾遺3巻

ネットの力で解決して「地図を使いこなせた」と言えるだろうか。答えはノーだ。

そこで、今回は地図と現地での調査だけで謎を解いてやろう。

目指せ、古地図王!

 

地図で調べよう

さあ、調査開始だ。

再び腰を入れて地図を持ち上げ、ページを開く。といっても、手がかりは時代ごとの地図だけ。

なので、わかることはシンプルだ。

 

まず一つ目、江戸時代には妖怪がまだいなかった。当時は「内藤家」の屋敷だったと。

裏には畑が広がっている。江戸時代はのんびりのどかなところだったようだ。

 

様子が変わるのは明治時代のこと。明治19-21年の地図には、やつが君臨している。

この存在感よ。

 つまり、江戸時代から明治時代の間になにかがあったと。

 

では、他に手がかりは。

汗ばむ手でページをめくると、見覚えのある言葉が飛びこんできた。

妖怪のとなりに「新宿御料地」とある。

「新宿御」まで聞いて思いうかぶものがあった。

新宿御苑」だ。

現代の地図と比べると、たしかにこの場所は新宿御苑と同じだった。

 

目的地が決まった。新宿御苑に行けば手がかりがあるにちがいない。

 

本を持っていこう

さあ、出発だ。

地図を袋に入れて、外へ出よう。

 

ファサァッ

 

袋に入れて

 

しゃがんで

 

肩にかけて

 

よいせっ!

 

地面すれすれだ……。

 

うぉっと危ない!

 

一応歩くのはできる。でもイメージしてほしい。5キロの米袋二つを左肩に乗せながら歩く大変さを。

片肩で歩いたら、間違いなく身体がガタガタになる。

整形外科で「10キロの本を持って腰痛めました」と言える勇気は僕にない。

 

……本は置いていくことにしよう。

地図をおろす。ページを広げる。新宿の場所を、ぱしゃり。

 

いざ新宿へ!

さて気を取り直して、やってきました新宿の街。

駅の東側に奴はいる。せっかくだから地図のスポットを見ながら進んでいこう。

 

まずは鉄砲場の横を通り、

「思い出」の意味が一気に物騒になった。

 

「海賊王」そっくりな笑顔を浮かべた「老婆王」にちょこっとあいさつし、

似てるよね?

 

目的地についた。

 

入園料を払いゲートをくぐる。

さあ、ヤツはどこにいる。気分は妖怪退治だ。

と、すぐに公園の地図が目に飛びこんできた。

妖怪は公園の左のほうにいたはず。よーく見ると、

 

いた!! 二つの目があるから間違いないだろう。

 

あっけなく見つかった。なんだ、簡単だったな。

妖怪の正体は日本庭園の池でしたと。

解決だ。さあ、帰ろう。

 

――とはいかない。

 

よく見ると形がちがっている

右目は眼帯がついてるし、うねうね広がるあの触手がないではないか。

どうやら、現代の妖怪はすでに封印がほどこされていると。

 

では、明治時代の池はなぜあんな姿だったのだろう。

そんなことを考えながら公園を進むと、妖怪のいたスポットについた。

わあ、と思わず頭が上を向いた。

橋と橋の間にあるのが妖怪の目玉だ。

 

もう一つの目玉。やはりギザギザした場所はなさそう。

 

妖怪が住む隙間もないぐらいきちんと手の入った場所だった。

古風な日本庭園と現代的なビルのコントラストよ。

建物が西洋風に変わっていった明治時代にも、同じような和と洋のコントラストがあちこちで起きていたんだろうか。

 

手がかり発見!

手がかりはないのか。

あてもなくふらふら。何かないか。と、気になる建物にぶつかった。

明治のめの字もなさそうなこの建物、実は――

 

博物館だった! ここなら手がかりがあるに違いない。

 

入口をくぐると出迎えてくれたのはひんやりとした霊気。

――ではなく、よく効いた冷房の風だった。冷気。

 

中は現代の粋をつくした空間が広がっていた。天井には10台以上のプロジェクターがぶら下がっている。

流れているのは「新宿御苑の歴史」だった。

待ってました。ここなら妖怪の正体がわかるのでは!

 

10分後、映像が終わり、部屋を出た。思わず腕を組んでうつむいた。

 

一つわかったことがある。

明治時代になり、ここの所有者が大名から皇室に変わったという。

 

妖怪が現れたのも明治時代になってからだ。

つまり……?

とんでもない仮説が頭にうかんだ。

 

 

いや、さすがに、まさかね。

 

早足でとなりの部屋へ行くと、再びプロジェクターを使ったコンテンツがあった。

 

その名も「御苑 今昔マップ」。

 

今度こそ手がかりをください! さっそく見よう。

 

と、かざした手が止まった。

なんかいるー!

 

タッチして開くと、さらに拡大された絵が見えてきた。アイツだ。

あの妖怪に、新宿御苑でようやく出会えた。

 

妖怪の正体は「鴨場」と呼ばれる池で、皇室が「鴨猟」を行っていた場所だったのだ。

 

妖怪が飼われているわけじゃなかった。よかった。

ちょっと力が抜けた。

 

ちなみに、こちらには鴨猟をしている写真ものっていた。

大人が虫取り少年顔負けの必死さでぶんぶん網を振っている姿にほっこりだ。

 

謎:新宿の妖怪の正体は!?
「鴨猟」に使うための池だった

 

地図のおかげで謎が解けた。

これでちょっとは使いこなせたのでは!

さあ、帰ろう。

 

本当にこれでいいのか

さっそく自宅の地図に報告だ。

 

妖怪の正体は「鴨場」だったよ!

で、鴨場っていうのは「鴨猟」をする場所なんだってさ。

その鴨猟っていうのはね――

 

空いた口がそのままの形で止まった。頭の中で疑問が衛星のようにぐるぐる回り始めた。

認めざるを得ない。まだまだ、謎は残っている。

新たな謎:鴨猟と池の形の正体を突き止めろ!

 

地図だけで何とかしたい

スマホを取り出し、あわててポケットにしまう。

 

「地図と現地の情報のみで調査する」

これが今回自分に課したルールだ。

 

正直、スマホで「鴨猟」って調べれば答えは見つかる気がする。

でもだ。

だからこそ、これを地図だけで解くことができれば地図を使いこなせたって言えるんじゃないか。

 

たのんだ! こうして再び地図を開いた。

ちなみに、読むときの姿勢は「ベッドから身を乗り出す」形に落ちついた。これならページめくりも楽々だ。

 

どこかにないか手がかり。あてもなくページをめくっていく。

 

15分後、ようやくめくる手が止まった。

別の場所でも妖怪、いや鴨場を見つけた!

 

場所は「浜離宮」か。聞いたことある。たしかここも庭園だったはず。

果たして、鴨場は今も残っているだろうか。

 

浜離宮の鴨場へ

1週間後、新橋に降り立った。

目的は、浜離宮に「鴨場」が残っているか確かめること。そして、もし跡があれば「鴨猟」の謎を解いてやるのだ。

 

駅前に蒸気機関車があった。そういえば、新橋は鉄道がはじめて引かれた場所なのだった。

 

新橋といえば「酔っ払ったサラリーマンがインタビューを受ける場所」のイメージが強いが、「日本初の鉄道駅」の面影もきちんと残っているのだ。

 

目には入っているけど知らない史跡って、世の中にたくさんあるのだろうな。

 

さて、浜離宮へ行こう。

暑いので「ヒカゲ丁通り」を通り、

通りはモノレールのヒカゲになっていた。昔にはなかった現代のヒカゲだ。

 

天下の松平(徳川家康の旧姓)とかかれた屋敷跡にどんな立派なやつがいるのかと冷やかしに行って返り討ちにあい、

屋敷跡にあったのはまさかの「電通」の本社! 広告業界の天下がいた。

 

目的地に到着だ。

受付でうちわをもらえた。気温は35℃。こういう気配りがありがたい。

 

さて、今回も地図チェックだ。鴨場はあるかな。

 

あった! しかも「新銭座鴨場」とはっきり書かれている。

思わず小さく飛びはねた。

 

いよいよ鴨場へ!

自然と足が速くなる。

5分ほど歩くと、目的地の鴨場に着いた。

 

妖怪と間違えるような池は、いったいどんな姿をしているんだろう。

深く息を吸った。

いいながめー! そんなIQが下がるようなのどかさ。

 

でも期待したものとはなんかちがう。

そこにあったのは、妖怪の「よ」の字も触手の「しょ」の字もないような「普通の池」だった。

 

激辛の食べ物を心して口に入れたのに普通の辛さだったときと同じ感覚を今味わっている。

 

しかし、そんな拍子ぬけはここまで。

池の横を歩くと、突然、古代遺跡があらわれた。

池からのびる曲がった水路、この形は知っている! 地図で何回見たことか。

間違いない。これが妖怪の触手だ。

 

今度こそ深く息を吸って、ぐっと吐いた。

 

鴨猟がようやく明らかに!

さて、次は鴨場がどうやって使われていたか知りたい。

と、ちょうどいいところに看板が。

鴨場の解説を見つけた。待ってました!

 

そこには知りたかった答えがあった。

しかもわかりやすい。

 

ということで、ここにあった図を使って、鴨猟の手順を紹介しよう。

 

鴨が水路に入る理由は、囮のアヒルが誘導するからだった。

弟が小さいころ「鴨がカモン」ってダジャレをよく言っていたけど、それに当てはまるシーンがあるとは。

 

これで鴨猟はばっちりだ。

 

鴨場をさらに見ていこう

さらに歩いていると、突然視線を感じた。

今度は何だと横を見ると、

まさかの新たな妖怪……?

 

ただ、詳しく見るとすぐに正体がわかった。

実はこれも、鴨場の一部だったのだ。

全体はこちら。手前が水路になっている。

ここに鴨をひきよせて網をぶんぶん振り回していたのか。

 

逆側に回ってみると、水路が見えないようにカモフラージュされていた。

参加者が網をもって隠れていた場所がここだ。

 

隠れ場所に近づいてみる。

ちょうどよく屋根ありのバス停みたいになっていて、肩の力が抜けた。

そういえば、「隠れる」ことって大人になってから全然していない。

 

待っているだけなのになつかしい心が戻ってくる。

鴨猟にはこういうエンタメ要素もあったのか。

 

穴からは水路がよく見える。

「のぞく」機会もなかなかない。さらに心が少年になっていく。浜離宮を貸し切りにしてかくれんぼをしたい気分だ。

今「布団が吹っ飛んだ」と耳元で言われれば腹をかかえて笑う自信がある。

 

妖怪の謎、完全解決

まだ見どころは続く。

穴の横には、また別の詳しい解説があった。

 

そこにあったのは、最後の謎「鴨場が妖怪のような形になっている理由」の説明だった。

風向きによって使える場所を変えると。たしかに人のにおいに気づいたら鳥は来ないか。

なるほど、BBQ中に風向きが変わったら煙を浴びないように移動するのと同じ原理だ。

 

こうして、今度こそ妖怪の正体が解けた。

 

あとは浜離宮をのんびり眺めて帰ろう。

鴨が日陰で休んでいた。

 

歩いていて、気になるものを見つけた。

「封印の儀式を行った祭壇」(みたいなの)があるではないか。

 

そこにあったのは、

「妖怪の封印」ではなく「鴨の慰霊碑」だった。

 

明治時代の東京では、新宿や新橋で鴨猟がおこなわれていた。そして今でもその痕跡はひっそりと残っている。

そんな歴史を地図だけでたどることができ満足だ。

 

こうして妖怪の正体をつかみ、鴨場についてしっかり知ることができた。

ありがとう。20万円の本、ちょっとは使いこなせたかな。

 

終わりに

さて、最後に一つ、課題が残っている。

 

しまう場所問題だ。

家がせまいのできちんと片づけないといけない。

家に帰るまでが遠足ならぬ、きちんと片づけるまでが「使いこなし」だ。

 

立てかけておくわけにもいかないし……。

 

あっひらめいた

 

荷物をだして

 

ブックスタンドをならべて

 

本をさしこんで荷物を戻せば

 

完成だ!

 

なんということでしょう。

 

20万円の本、仕切りにオススメです。

杉並・善福寺川にある銅像が人々の「よりどころ」になっていた

いつもランニングをしている道がある。そこで目に入る姿があった。手元にはいつも飴を持っていて、通りすぎる人に笑顔を振りまいている「銅像」だ。その姿をながめていると、自然と心がほぐれ踏みこむ足に力が入っていく。飴を渡す人の気持ち、わかるぞ。

ある日異変が起きた。食べ物が増えだしたのだ。軽いひなあられから始まり、果てには板チョコ丸々1枚まで。おやつとして食べると太る量までになっていた。

今回は一人の銅像がみんなのよりどころになっていった話です。

 

気になる銅像

杉並区をつっきるように流れる善福寺川は区民のいやしスポットだ。子どもは善福寺川の交通公園に集い、大人は桜を見に、犬は散歩に、カモは餌を探しに川に集う。

そんな善福寺川にイチオシの隠れスポットがある。それが「八重桜のじゅうたん」だ。

弘前よりもずっと規模は小さいが密度は負けていない。

そして、じゅうたんの道に一人の「子ども」がいる。

今回の主人公だ。

毎週通っていて気づいたことがあった。手元に飴を持っている。

しかも、よく見ると飴の味が毎回変わっているではないか。

どうやら誰かが毎週「あめちゃんあげる」って渡しているようだ。

気づいたら、以前なら休んでいたような天気でも毎週ランニングに行くようになった。なぜなら飴の変化を見逃したくないから。

台座にある像の名前は「空を」。そこで、「ソラ」と名をつけて見守っていくことにした。

 

それから、ソラは色々な姿を見せてくれた。

あるときはお小遣いをもらっていたり。

子どもにお小遣いを渡したがるおばあちゃんの気持ちが初めてわかった。

あるときはプリペイドカードを持っていたり。

さすがにあせった。

放っておくわけにもいかず「実績:警察に忘れ物を届ける」を解除した。

実際に行ってわかったことがある。書類に「令和○年」と書くところがあり、何年かわからずあせってお巡りさんに苦笑いされた。ということで、交番に行く用事のある人は年号を調べてから行くことをオススメする。

 

ある日、そんなソラに異変が起きた。

 

ソラの異変

いつものようにランニングしながら川に足を運ぶ。ソラはどうしてるかな。

思わず足が止まった。疲れたからではない。ソラの手元がいつもと違う。

カラフルなポップコーン……?

なんだろう? 一つ、思い当たる食べものがあった。

スマホを見る。

画面に出たのは「2020年3月7日」の文字。やっぱりそうだ。

これ、ひなあられだ!

ソラは飴を楽しむだけじゃなく、ひな祭りのお祝いもしていたのだ。

ひな祭りの存在、すっかり忘れてた。

忙しくすごしていると気づいたら季節が変わっていることがある。そうだ、意識して季節のイベントを楽しんで移り変わりを感じることで、毎日の大切さをかみしめることができる。

その日のランニングは心なしか走っていていつもより温かかった。

 

しかし、ほっこりは次の週、びっくりに変わった。

バームクーヘンどーん!

ひな祭りは終わったとばかりにバームクーヘンが乗っかっている。季節感あふれるほのかな味わいのひなあられは、パンチあるバターの風味が効いたドイツからの刺客に上書きされていた。

それはそれでおいしいからいいけどね。みんな違ってみんなおいしい。

よく見るとガムもあった。バームクーヘンの脂っぽさをリセットできて良きかな。

洋菓子の流れは続く。今度は4月の終わりのことだ。

ソメイヨシノが散り八重桜がピークを迎えるころ、どんな花にも負けない鮮やかな色が目に飛び込んできた。

今度は板チョコ1枚ときた。

全部食べたら夕食が入らなくなるんじゃないかと心配になるやつだ。いや、でもお花見しながら好きなものを食べるのは何より幸せだからそれならありか。

気づいたら親の目線になっている。食べるのはいいけど、ほどほどにね。

 

増える食べ物

5月。ひな祭りに続いて子どもの日がやってきた。この時期の善福寺川では、川だけでなく空でも鯉が泳ぎ始める。滝を登りきった鯉が竜になるという伝説をもとに鯉のぼりは生まれたらしい。とすると、川の上に鯉のぼりをかけるのはある意味正しい姿なのか。

そんなことを考えながら通りすぎる。走っていると普段考えもしないことを思いつくから楽しい。

この向きだと洗濯ものっぽく見えてそれはそれで好き。

さて、ソラはどうしているかな。

かしわ餅ときたか! 和菓子が復活だ。

ソラも子どもの日をしっかり楽しんでいた。最初に食べるときって、かしわの葉っぱが食べられるのか迷う人が多いと思う。その葛藤も含めて楽しんでほしい。

 

そして次の週。ソラと食べ物は新たな局面を迎えることとなる。

勢ぞろい 飴に月餅 柿の種!

ぱっと見ると地味なように見える。が、よく考えてみてほしい。皆さんはおやつを食べたいとき、どのようなお菓子の「組み合わせ」を選ぶだろうか。多くの人は、「甘いもの」「しょっぱいもの」の両方を選ぶのではないだろうか。

今回、初めてこの二つがそろったのだ。

あんこがずっしりつまった和菓子を食べ、その次はしょっぱい柿の種をほおばる。そして次に甘いもの。次にしょっぱいもの。柿の種の参戦により幸せのループが完成した。

 

そして、これを最後にソラは再び飴だけの生活になっていった。

飴も休みがちになり、種類もバラバラに。

やがて飴もなくなり、ソラは普通の日常に戻っていった。

何も持っていないソラの写真がフォルダにたまっていく。

 

異変の種明かし

さて、ではなぜこの時期だけソラはたくさん食べ物をもらうようになったのだろう。実は、はっきりとした理由がある。

一部の人は察しがついていると思う。

それは、「コロナ禍」だ。

ソラがひなあられを食べていたのは「2020年の3月」だ。ちょうど感染者が増え始め、政府が緊急事態宣言を検討し始めたころとかぶっている。

あのとき、買いものすら自由にできなくなり、日本全体に重い閉塞感が漂うこととなった。

お花見も制限され、歩きながら楽しむこととなった。屋台のたこ焼きが恋しい。

しかし、唯一外で許されたことがあった。それが散歩や運動だ。

気を紛らわせようと公園に向かった人々はそこで「ソラ」と出会う。

第一波のときはコロナ疲れもまだなく、「耐えて乗り越えてやろう」という不思議な一体感があった。そんな思いの向かった先がソラへの食べ物だったのだ。

そして第一波の終わりとともにソラも普通の存在に戻っていった。

そう考えると、お菓子を持っていない姿も平穏を感じられてアリだ。

 

日常を楽しむソラ

あれから2年。2022年の後半に入りようやくコロナの終わりが見えてきたころ、ずっと何もなかったソラに変化が訪れた。

9月のある日、横を通るといつもよりも楽しそうなソラがいた。

いつもより笑顔が輝いて見える。見えるよね?

ブレスレットをつけていた!

おしゃれを楽しむソラ。子どもにとってのビーズは、大人にとっての宝石と同じ価値がある。こういう形の違うビーズもどこか懐かしい。

 

それから、いろいろな遊びを楽んでいるソラの姿が見られるようになった。今週はなにをしてるかな。

ある日は口に実をくわえて遊んでいたり、

虫取りの準備をしているときもあった。たしかに善福寺川では虫を探している子どもをよく目にする。

こうしてソラは、みんなのよりどころになる特別な存在から「普通の子」に戻った。それでいい。ぜひ存分に楽しんでほしい。

 

またね、ソラ

私事だが、今年(2023年)の1月から新居に移り一人暮らしを始めた。ランニングコースは善福寺川より南の神田川となった。

ソラともお別れだ。

慣れない引っ越しから1週間後、神田川を走ってみることにした。

足を動かしていて浮かぶのはソラの笑顔だ。元気にしているかな。ちょっと帰りたくなってきた。

始めて20分ぐらいたっただろうか。ふと視線を感じた。顔を左に向けると、足が急ブレーキをかけて止まった。

どこか既視感のある外見だ。

くりくりした目に笑顔の口。そして題名は「川は」。ソラの正式名称「空を」と似ている。偶然ではないだろう。

まさかの、引っ越し先でソラのお兄さんと鉢合わせた。

別の日に来たら同じように食べ物を持っていた!

子どもの割にどこか余裕たっぷりの姿を眺めていると思わず姿勢が良くなった。そうだ、慣れない生活でもどんと構えて一つ一つこなしていけばきっと楽しくやれる。自然と心が前を向いた。

これからよろしくね。

戦時中に作られた謎の石碑? 「国威宣揚(こくいせんよう)碑」の余生が興味深い


散歩をしていると「国威宣揚」と書かれた石碑を見つけた。普通こういうのには解説があるものなのに、立て札もなくそこにたたずんでいる。一体何者なんだろう。

調べて見えてきたのは、それぞれ違った余生をけなげにすごしている彼らの姿だった。

 

街かどの異物

慣れた場所を歩くとき、いつもと一本ずれた道を選ぶのが好きだ。曲がった先で変なものを見つけると、自分だけの秘密基地を見つけたような少年時代に戻った気持ちになる。

ある日、いつも歩いている道をなんとなく左に曲がった。思わず頭の中の少年が歓声を上げた。

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謎の石碑がコンチニハ。(中野3丁目)

あまりに自然に違和感が立っている。思わず歩調が速くなった。

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「国威宣揚」ってなんだろう。

こういうものには解説の看板がつきものだ。でも、見渡しても目に入るのは自転車とゴミ回収のお知らせだけ。ほほう、これは謎の香りがするぞ。

もうちょっと詳しく見てみよう。

側面には作られた日付と建てた人が書いてあった。

見覚えのない言葉がちらほら。スマホで調べてみると、なるほど見えてきた。内容からするにこういうことか。

太平洋戦争開戦日の祝日(=大詔奉載記念日)を記念して、1943年(=昭和18年)に町内会(=桃園子宝会)がこの碑を建立した。

1943年は太平洋戦争のちょうど真っ最中だ。つまり、住民の戦意を上げるために町内会が建てたのがこの石碑ということになる。

 

つまり、これは「戦争の跡」だ。

慰霊碑や郷土資料館の展示など、戦争の跡は探せば意外と見つかるものだ。あえて残しておくことで、「ここで実際に戦争があったんだ」と記憶が伝わり、次の代へとつながっていく。

こんな身近な場所にもあったとは。

 

ところで、一つわからないところがある。後ろにあるボルトはなんだろう。

何かを引っかけるために使われていた?

足をかけて登るのにちょうどよさそうなとっかかりだ。少年時代の自分がうずく。思わず足がぴくりと動く。と、「別の理由があるんでしょ」と内なる声が聞こえた。止まる足。悲しいかな、こうやって人は大人になっていくのだ。

 

近くにも国威宣揚碑があるらしい

ボルトの謎が気になる。こういうときに頼るべきは他の事例だ。他に国威宣揚の石碑はあるのかな。調べてみるとあっけなく見つかった。しかも場所はちょうど2キロ先だ。

さっそく行ってみよう。

「親注意」の風車を通りすぎ、

立派な門の神社に着いた。(馬橋稲荷神社)

この神社、立派な人生を全うした祖父が「ここにした願いは叶う」と言っていたのでオススメだ。あと実は東京の三大鳥居だったりめずらしい昆虫がいたりと知る人ぞ知る名所だったりする。

先ほどまで歩いていた住宅地とは違ったおごそかさに思わず歩幅が小さくなっていく。

柱を踏まないよう足元に気をつけながら門をくぐると、右手にやつはいた。

「国威宣揚」の文字を見つけた。

同じ漢字だ。でも、こちらはどこか「感じ」が違う。とかつまらないことを言うと怒られそうな迫力がある。

具体的には、現役というか「生きている」感じがする。

うまく言葉にできず思わず天を仰いだ。目線が上がった先に答えがあった。

そういえばちょうど祝日だったか。

天をかきまぜるかのように誇らしげに立ったポールがそこにあった。そういうことだったのか。

国威宣揚碑の正体は「国旗掲揚塔」だった。そして謎の金具はポールを固定するためのものだったのだ。

 

他の国威宣揚碑も見てみよう

二か所の国威宣揚碑と出会うことができた。となると気になってくるのが他の国威宣揚碑だ。他の仲間はどのようにすごしているんだろう。ネットの情報によると各地に残っていて、東京だけでも40か所ぐらいあるとか。

こうして国威宣揚碑に会いに行く散歩が始まった。気分は家庭訪問中の先生だ。元気にしてますか。お変わりないですか。

歩いてみてわかったのだが、それぞれ違ったすごしかたをしていてなかなかおもしろい。

子どもによじ登られていそうな国威宣揚碑があれば、(深川一丁目児童遊園)

二宮金次郎がつまずきそうなものもあった。歩きスマホの啓発ポスターにこういうのどうでしょう。(大森西4丁目)

当時の姿そのままの国威宣揚碑もあった。木のポールだったのか!(久國神社

国威宣揚碑、深いぞ。一個一個見せていきたい思いはあるが日が暮れてしまうので、ここからは4パターンの「余生のすごしかた」にわけて国威宣揚碑を紹介していこう。

 

余生1 ゴミ捨ての「旗」を掲揚する

ここで最初に見つけた国威宣揚碑を、もう一度見てほしい。

金具の先にひらひらとついているものがある。

別角度で見てみよう。

まさかのゴミ捨て場の「旗」!

かつて「国旗」を掲げるために町内会が建てた国威宣揚碑は、まさかの「ごみ収集」の旗を掲げる場所として使われていた。しかも使っているのは町内会というまさかの縁だ。

定年後に再雇用されて生き生きと働いていた数学の先生を思い出した。

しかも、この余生を送っている国威宣揚碑は一つではなかった。

右側に見覚えのあるオレンジ色が見える。(北野神社西町天神)

やっぱりか! 幅がジャストフィットでこのために建てられたと思うレベルだ。

ちなみにこのパターンは中野区以外では見つけられなかった。

国威宣揚碑を見るに、中野では歳を取っても活躍する社会が整備されている。そういえば、僕と再雇用の先生が通っていた学校も中野区だった。

定年後に中野に住むの、ありだな。

 

余生2 かくれんぼする国威宣揚

二つ目の余生の送りかたは、「かくれんぼしてすごす」だ。

こちらの国威宣揚碑を見てほしい。

今正面に写っています。(打越天神北野神社)

どこにいるかわかるだろうか。正解はこちら。

看板の裏はこうだ。見事に外から見えなくなっている。

この国威宣揚碑を見ていて、子どものころ木の陰に隠れて息をひそめた思い出がよみがえってきた。大人になって本気でやってもそれはそれで楽しそう。

そう思って調べると、何百人もが温泉街に集まってかくれんぼする「全日本かくれんぼ大会」なるものを見つけた。

世の中はまだまだおもしろいものが眠ってる。仮装して参加する人が多いらしいので、街角の国威宣揚碑の格好をして出ようか。

そんなことを考えながらHPを見ていると、すでに太陽の塔の仮装をして参加した人がいた。勝てない……!

 

さて、かくれんぼがさらにうまい国威宣揚碑があったのでそちらを紹介したい。 

こちらも画面中央にいます。(仲町氷川神社

ぴょこんと頭が出ているのがわかるだろうか。横には木が生えていてカモフラージュはバッチリだ。

近づくと立派で思わず声が出た。よく隠れられるな。

では、彼らはなぜ隠れているのだろう。

「国威宣揚」というのは「国家の威光を示す」という意味だ。この言葉からして、戦争の終わりとともに無用の存在となったのは簡単に想像できる。それどころか、価値観が180°変わった戦後の日本にとって隠したい過去のおもかげでもあったのだ。

木立に隠れてやりすごそうとしているのもいた。(白金5丁目)

その結果、彼らは人目に立つこともなく隠れ続けている。ずっと。

 

余生3 戦争の記憶として生きる

隠れているのではなく、堂々と「スポットライト」が当たっている国威宣揚碑もあった。

こちらの「島」に国威宣揚碑があるとか。

ここは国立駅のロータリーだ。この道路を渡らないといけないのだが、ここは日本には数少ない「ラウンドアバウト(環状交差点)」になっていて、絶え間なく時計まわりに車がぐーるぐる回っている。「スーパーマリオブラザーズ」で火の棒が回っているステージを思い出した。ここを進むためには絶妙なタイミングでダッシュボタンを押さないといけない。

さて、タイミングをぬって小島に着いた。出迎えてくれたのは。

重厚感あふれる国威宣揚碑だ!

ラガーマンのような力強さだ。ただよく見るとヒビが入り補修されたあとが残っている。ん? 補修されているってことは今もしっかり管理されているってことか。

では誰が管理しているんだろう。横を見渡すと、答えが見つかった。

横に解説板がある。今までにはないパターンだ。

国立市では、わたしたちが二度と戦争の過ちを犯さぬように、平和を願う気持ちからこの銘板を設置するものです。

国立市教育委員会

管理しているのは自治体だった。この国威宣揚碑は「戦争の歴史資料」としてあえて保存されていたのだ。

平和の石碑のかたわらに残っているものもあった。ぜひそのままでいてほしい。(水稲荷神社)

同じ国威宣揚碑なのにこうも待遇が違う。これもまた人生。

「平和の礎」の横に平和でない光景を見つけた。田中のおじさん……。

 

余生4 「擬態」して生き残る

最後に紹介するのは、かくれんぼどころじゃなく自らの存在すらを消して「擬態」して生き残る国威宣揚碑だ。

擬態先は公園の一角によくある「ブロック」だ。

公園によくある植物の木漏れ日。の手前に何かがいる。(駒繁公園)

 

「ここに四文字を入れなさい」と大喜利の画像に使われそうな見た目だ。

知識がないと「公園の飾りかな」ぐらいにしか思わないだろう。でも、今ならそこに書かれていたであろう四文字がはっきりと予想できる。そして実際に国威宣揚と書かれていたらしい。

同じような「石のブロック」は東京の都心にも見つかった。

東京タワーのすぐそこ、芝公園に佇んでいた。

こちらは文字が完全に消えている。情報もないので何が書かれていたか、正確にはわからない。しかし手がかりはある。裏側にはポールを固定していたであろう金具の跡があり、側面には1940年(紀元二千六百年)に建立と書いてあった。戦時中に作られた国旗掲揚塔なのは間違いない。

奥に見えるのは平和の塔だ。

80年以上前にこの石が設置され、かつて元気に国旗をたなびかせていたと気づく人は誰もいない。それでも痕跡はここに残っているのだ。

 

実は消えつつある国威宣揚碑

回っていて気づいたことがあった。それは「国威宣揚碑」が今でも消えつつあるということだ。今回20か所ほど回ったのだが、そのうち二つが消えていた。

ああ……。マンション建設の立て札が近くにあったので、そのあおりで撤去されてしまったようだ。(牡丹2丁目)

神社にあるのも安泰ではない。(五方山 熊野神社

普段住んでいて、「戦争の跡」をはっきりと見ることはほとんどない。そのため各地にまだ残っている国威宣揚碑は貴重な存在なのは間違いない。しかし、そのほとんどが保護されていないので消えていってしまう一方だ。

どうか、国立駅のような余生を送る国威宣揚碑が増えますように。

 

ネットサーフィンと散歩で見つけた都内の国威宣揚碑をプロットしてみたのでどうぞ!

江戸時代に「きつねダンス」が大流行していた

 

日本で「きつねダンス」が流行っている。ある日、江戸時代の本を読んでいると「稲荷踊り」なるものを見つけた。そのとき脳内の翻訳アプリが動いた。「稲荷踊り -> きつね踊り -> きつねダンス」たしかに! 気になって調べてみると、「徳川将軍が見物した」とか「禁止された」とか次から次へと不思議な記述が出てくるではないか。今回は、江戸時代の「きつねダンス」の正体にせまろう。

 

※本記事では、現代の物差しで考えづらい怪現象(?)が出てくるが、あえてその是非に触れないで進めていこうと思う。疑問にとらわれるよりも、せっかくなら斜に構えず楽しんだほうが得だ。

 

令和の日本にきつねダンスが響き渡る

2022年、日本できつねダンスが人気をさらった。……らしい。というのも、野球を普段見ないので、流行語大賞にノミネートされたのを聞いて「そんなに人気があったのか」と興味を持ったぐらいだった。

しかし、のんびり1年を振り返りながら「紅白歌合戦」を見ていると、きつねダンスがバッチリ出ているではないか。とどめを刺されたのが紅白のあとに流れる「ゆく年くる年」だ。いつもは薄暗いお寺をしっとりとした面持ちで放送する番組なのだが、今年は違った。照明カンカンでドラムガンガンの音楽に合わせて踊るケモ耳姿のチアダンサーたち。

これがゆく年くる年

 

これだけ物静かな番組まで乗っ取ってしまうそのきつねダンスの力に、思わずひれ伏した。

 

そんなきつねダンスに魅了された新年の日のことだ。趣味で古い本を読んでいたとき、突然「稲荷踊り」という文字が目に入った。

のっていたのは江戸時代のお触れが書いてある本だ。

 

「幕府、稲荷踊りを禁止」とある。禁止される踊りとは?(索引政治経済大年表 年表篇)

 

稲荷=きつね、そして踊り=ダンスだ。つまりはきつねダンス! 1841年、つまり182年前にもきつねダンスが存在したということか。

太鼓と鐘の調べに合わせて着物の裾をひらりとなびかせて舞う女性の姿が頭に浮かんだ。これはチアダンスとはまた違った良さがありそう。タイムスリップして見てみたいぞ。

 

江戸時代の「きつねダンス」は降霊術!?

でも冷静になると変だ。江戸時代にはケモ耳カチューシャもEDMも存在しない。では、江戸時代のきつねダンスはどんなものだったのだろう。

調べたところ、文字通りきつねにつままれた気持になった。降霊術や口寄せの一種だったというのだ。

 

まずは、福島県のきつねダンスはどのようなものだったのか紹介する。発祥は福島県の可能性が高いらしい(*1)。

狐に代わって告げる人は手の親指を内側にしてにぎり、それに手拭を掛けて持って坐る。その人を寄り人という。その周囲を輪になって五、六人が坐り、または立って回る。その時、狐踊りの歌をうたう。何度かくり返しているうちに狐が寄り人に憑く。そして憑くとこちらで聞きたい事を聞くとお告げがある

(奥会津南郷の民俗)

お告げ! ほしい。今ポストのダイヤル錠が開かなくて困ってるからどうすればいいか教えてほしい。あと電気スタンドを買おうと思ってるけど選ぶの面倒だからいいの教えてほしい。そう考えると、きつね踊りって便利屋みたいだ。

「そんなどうでもいいこと聞くか?」って思う人がいるかもしれないが、「紛失物のあったとき」にきつね踊りを行ったって記録もあるので正しい使いかた(の一つ)だと言い訳しておく(分類祭祀習俗語彙 オカマカジ)。

*1「地蔵を憑けて伺いを立てる」という風習が福島県のみに存在している。その類似として、オカマ憑け・狐踊りの風習も福島県から始まったのではないかと推測できる。

 

きつね踊りって人気だったの?

ここで一つ疑問が出てきた。きつね踊りってどのくらい人気だったのだろうか。

最初に読んだお触れでは、きつね踊りが幕府によって禁止されていた。

見直すとやはり「稲荷踊を禁止」とある。(索引政治経済大年表 年表篇)

わざわざ「禁止」と書くならば、それなりには人気があったと考えるのが自然だ。

さっそく人気の証拠を見つけに行こう。

そしてトリビアの泉に「江戸時代にもきつねダンスが流行っていた」って送って金の脳をもらいたい。懐かしくなって金の脳をメルカリで調べたら2770円で売られてて意味もなく悲しくなった。

 

そんな斜に構えた気持ちで検索すると、とんでもない大物が引っかかった。思わず後ずさった。

その名は、徳川家慶(いえよし)。なんと「徳川十二代将軍」が見ていたという。

「稲荷踊など唱えるもの見物」とあるではないか。(徳川実紀 巻五 187頁)

 

きつね踊りは、江戸時代のトップが見物するほど人気だったのだ。

出典の『徳川実紀』は徳川将軍の動静を記録にした本だ。つまり、現代に直すなら「首相動静」に「岸田首相、きつねダンスを見学」と書かれるようなもの。

今のところ、きつねダンスを岸田首相が見たという話は聞かない。

つまり、江戸時代のきつねダンスは令和のきつねダンスよりも流行っていたとこの一面では言えるのだ!

 

きつねダンスはどうして人気だった?

政治のトップが見るほど人気だったきつね踊り。となると改めて気になるのが「なぜ人気だったのか」ということだ。

しかしきつねが憑いて宣託が下る儀式か。現代に合わせると、地下のイベントスペースでひっそりと行われるディープなイベントみたいなイメージが浮かんでくる。

テレビで例えるなら、「野球番組」ってよりも「(本来の)ゆく年くる年」のほうが近いんじゃないか。果たしてこんなに人気が出るものなのだろうか。

 

では、何が人をきつね踊りに駆り立てたのだろう。

実は、きつね踊りは江戸に伝わっていくにつれ形を変えていったようなのだ。

 

先ほど、きつね踊りのミソは「宣託(お告げ)」と書いた。しかし、どうも江戸近辺で行われたきつね踊りには、もう一つ新たな要素が加わっていたようなのだ。

それが「踊り」だ。

余興か! 障子の桟や屏風に乗るってすごい。(神奈川の民俗

※トウガミ=きつね踊りのこと ナカザ=憑かれる人のこと

これはたしかに楽しそうだ。普段物静かな人がキレッキレな踊りをしたりSASUKEでしか見ないようなアクロバティックな動きをしたらそりゃあ盛り上がるに決まってる。

 

この上に人が乗るのか。中国雑技団もびっくりの芸当だ。(Photo by (c)Tomo.Yun

ようやく腹に落ちた。最初のきつね踊りは、憑いたきつねに質問をし答えてもらうものだった。しかし、徐々にきつねに余興をたのんできつねがノリノリでそれに応える、そんなお祭りみたいな場に代わっていったのだ。

 

パリピになったきつね踊り

江戸できつね踊りが流行ったのはようやく納得した。では最後の疑問だ。最初にきつね踊りを知ったとき、書いてあったのは「きつね踊りを禁止する」という内容だった。

幕府がはっきりと「禁止」と定めるほどだったきつね踊りとは、何者だったのだろう。問題のある踊りのイメージとして裸踊りがぱっと浮かんだがきっと違う。

では、江戸幕府が禁止した「お触れ」の内容を見てみよう。

杉並で実際に掲示されていた記録が残っている。(杉並区郷土博物館研究紀要 第18号)

うん、読めない。終わり。ともいかないので、がんばって太字の部分を翻訳してみた。間違っているところがあったら直します。

大勢が集まり、一人に気を移したら、多くの人がことごとく狂ったように調子にしたがって踊り出し、中には正気に戻らず命にかかわる者とらえられる人もいた

きつねの神託が下る儀式は、江戸ではすっかりどんちゃん騒ぎになっていたのだ。その果てには、憑いたきつねが戻らなかったり騒ぎすぎて捕まった人もいたと。

つまり、騒がしく危なくて収拾がつかなくなるから禁止します、ということか。

頭に浮かんだのは終電後の繁華街の姿だ。騒ぎ足りない人、酔って意味もなく突っかかる人、そして伸びている人を起こす警察の人。秩序が遠ざかったあの場所を思い出した。今も昔も変わらんなあ。こういう今との共通点を見つけると、歴史を調べていて良かったとしみじみ思う。

 

今も昔も変わらない

こうして江戸時代のきつね踊りは禁止されていった。ところが、禁止のあとに風習が消えていったかというと、そうでもないという。

皆さんは楽しいことが禁止されたらどうするだろうか。多くの人は「こっそりやる」のではないだろうか。小学生のとき「1日1時間」を超えてゲームをするために親に隠れてやっていたのでよくわかる。

それはきつね踊りも同じだったのだ。きつね踊りの記録は、大正時代までポツポツと見つけることができるという。ものによっては昭和初期まであったとか。

 

今回調べて思ったのは、今も昔も変わらないということだ。きつねは太古より神社や物語で大活躍してきた。そして人が踊りを楽しむのも不変のもの。そう考えると、令和と江戸の両方にきつねダンスが存在するのも偶然ではないのだ。

200年後の日本では、どんなきつねダンスが流行っているんだろう。

 

参考文献

  • オカマ憑けと狐踊り――民間シャマニズムの一面――
  • 索引政治経済大年表 年表篇
  • 会津南郷の民俗
  • 徳川実紀 巻五
  • 神奈川の民俗
  • 杉並区郷土博物館研究紀要 第18号

「パラレルワールドのココカラファイン」が吉祥寺にある

ココカラファインを知っているだろうか。白地にピンクのロゴが輝くあのドラッグストアだ。ある日、吉祥寺にまったく違った姿のココカラファインを見つけた。まるでパラレルワールドココカラファインだ。おもしろそう。ちょっと深堀りすると、同じような店舗が全国各地にポツポツと残っていることが見えてきた。

 

吉祥寺のココカラファインがおもしろい

ココカラファインといえばピンク色の店である。地球が太陽の周りを回っているのと同じ、世の中の真理だ。

そう思っていた。

どこにもあるこういうやつ。

吉祥寺駅を降りたとき、真理が崩れた。

右側にある緑の建物を何となく眺めていると、

見たことないココカラファインに出会った。

ピンク色じゃないココカラファインなんて存在していいものなのか。太陽が世界の中心ではなかったのか。

気のせいではない。

目をこする。頬をつねる。世界は緑色のままだった。頭の中には宇宙が広がって猫が目を見開いている。

謎:色が違うココカラファインは何者?

 

落ち着いて観察しよう

首をかしげていてるだけは何も進まない。いったん足を進めてちゃんと観察してみよう。

施設の異常を見逃さない警備員にも負けない念入りさで店の周りを歩き回ってみる。

すると、新たに二つ気づいたことがあった。

① クローバーをとにかく推している

よく見ると、四つ葉のクローバーがあちらこちらに見える。それも普通の量じゃない。

緑色の場所あればクローバーあり。

店の側面にもグリーンベルトが続いている。

町の一角でここだけ草花が栄えている。都会のオアシスはこんな駅チカにあったのだ。せっかくだからと数えてみると、なんと49個。葉っぱの枚数にすると196枚だ。

吉祥寺といえば自然もある街っていうイメージがあるけど、駅前に緑の隠れスポットがあったとは。

 

② 歴戦の勇者感

もう一つ気づいたことがあった。どこかベテランめいた風格がある。

ココ 、カラダ、ゲン

キャッチフレーズの「ココロ、カラダ、ゲンキ。」がはがれている。新たな「ンョ゛ハー゛」はここにあったのか。

他の場所も似たようなものだった。無事な「ココロ」がない。

ゲンキな状態ではないな。

どうやらこのお店、できたばかりではなさそうだ。

お店の名誉のために言っておくと、古っぽく見えるのは正体を暴いてやろうみたいなよこしまな心で見ているからであって、普通に買い物するぶんには気にならないぐらいだ。

 

吉祥寺のココカラファインは一号店だった?

ここで、わかっていることをいったん振り返ろう。

色が違うココカラファインは何者なんだろう。今わかってる手がかりは二つ。

手がかり1:ロゴが現在と違っている

手がかり2:お店が古め

インターネットに手がかりがあるかもしれない。PCに向き合ってwebの海に潜っていく。

企業の詳しい歴史を調べるときは、投資家向けの情報を見るのが簡単だ。(マツキヨココカラ&カンパニー

すぐに答えが見つかった。思わずまばたきが止まった。そういうことだったのか。

今回訪れた「ココカラファイン吉祥寺南口店」は、「ココカラファインの一号店」だったのだ。

 

その結論にたどりつくためには、ココカラファインの歴史を知る必要がある。とはいっても大事な出来事は二つだけなので、身構えないで読んでほしい。

 

① 「ココカラファインホールディングス」が誕生(2008年4月)

ココカラファインが生まれたのは意外と新しく、2008年のことだ。

北京オリンピックで北島選手が「何も言えねえ」と歓喜し、福田総理が「あなたとは違うんです」とこぼしてしたあのころに、緑色の産声が上がった。

当時のココカラファインの資料を見ると心に緑の風が吹いた。

見覚えのあるマークがある!(2008年3月期 決算説明会)。

ココカラファインホールディングス」が生まれた経緯はこうだ。

薬局のセガミメディクスセイジョーが統合し、「ココカラファインホールディングス」が生まれた。

大事なのは、このときセガミ」「セイジョー」のブランドがそのまま使われていたという点だ。

図にしてみた。円の大きさはおおよその店舗数を表してます。

つまり、この時点では「ココカラファイン」というお店は存在していなかった。

 

ココカラファインブランドの店が登場(2012年5月)

4年後の2012年、ココカラファインに新たな布石が打たれた。

吉田沙保里がオリンピック三連覇と13大会連続優勝をなしとげ、「霊長類最強」と言われるようになったあのころだ。

ココカラファインは買収を重ねて成長しながら、薬局界で勝ち上がる新たな手を模索していた。そして生まれたのがココカラファインブランドの店舗」を作ろうというアイデアだ。

その野望の足がかりとして選ばれた場所が吉祥寺だった。

買収を重ね四つのブランドが共存している中、新顔が生まれた。

つまり、吉祥寺南口は記念すべき「ココカラファイン発祥の地」だったのだ。

 

パラレルワールドココカラファインが他にもある!?

これからは吉祥寺を通るたびに一人心が弾みそう。と、資料を見ていて気になる文章が見つかった。

ココカラファインブランド店舗の出店

販社統合のシンボル的な意味合いである実験店を夏までに3店開店し、ブランドイメージ、訴求方法等の検証を経た後に全店への展開を検討。

2012年3月期 決算説明会

パラレルワールドココカラファインは他にも存在しているのだ。てっきりあの一店舗だけが特別かと思っていたけどそうじゃないのか。

今、異世界転生した主人公が他にも転生者がいることを知って驚く気持ちを味わっている。

 

ではこの「3店」は何者だ。調べると、たしかに2号店と3号店が見つかった。

本当にあるんだ。そして3号店は残っているではないか。となると、行くしかあるまい。朝霞へ。

こうして「ココカラファイン」が目的地のショートトリップが始まった。

 

ココカラファイン朝霞店へ

さあ、朝霞駅に到着だ。家が東京なので、薬局に行くためだけに県境をまたいでここに来たことになる。

もし薬局で買い物するのではなく見に行くために1時間電車に揺られた人が他にいたら友達になりたい。

朝霞駅ではゆるキャラぽぽたん)がなぜか銃を構えていた。調べると、自衛隊基地がある上にオリンピックの射撃が行われた場所だったとか。

ぎょうざの満州」を見ると埼玉の人がうらやましくなる。餃子だけでなくラーメンも安くておいしいしとにかく居心地のいい店だ。

ココカラファインだ! と思ったけど違った。

15分歩いたところに、見覚えのある文字が目に入った。思わず足が止まった。

あった。ピンクじゃないココカラファインだ。

やはりこれもピンク色じゃなかった。でも緑でもないのか。「実験店」だけに、このデザインも新たな試みの一つだったのだろう。

近づくと吉祥寺のココカラファインと同じ特徴が見えてきた。それが「風格」だ。

継ぎ目から10年間の重みを感じる。デザインは継ぎ足さずに使っております。

入口は新旧混じったデザインになっていた。赤い帯がはがれかけていて思わず応援した。

ちなみに、店内はいたって普通だった。
吉祥寺店との違いは、駅前ではないのでお客さんが3人ほどで静かだった点だ。心なしか進む時間が穏やかだった。こういう場所なら静かに暮らせそうだ。

朝霞には、また吉祥寺店とは違った良さのココカラファインと出会うことができた。

 

ここからは蛇足になるが、帰り道に看板を見つけた。

地域の看板、よくあるやつだ。

こういう標語の看板はよく見るものだ。でも、実際知らない人に挨拶する街ってそうないよな。そんなことを考えながら歩いていると、

「こんにちはー」

えっ?

目をやるとそこにはお店の前に立ってる笑顔のお姉さん。思わずあせって会釈しかできなかった。

さらに50メートルほど歩いたころだろうか。

「おかえりなさい」

今度声をかけてくれたのは交通整理をしていた警察のおばちゃん。

「ただいま」

思わず返事していた。これから電車で帰るところだけど。

朝霞、優しい街だった。便利なドラッグストアもあるし餃子の満州もあるし、もし埼玉に住むことになったらここにしよう。

よさこい祭りの季節にも行ってみたい!

 

ここからさらにマニアックな話

さて、パラレルワールドココカラファインが吉祥寺と朝霞に残っていることがわかった。となると気になるのは「デザイン違いのココカラファインは全部で何店舗あるのか」だ。

試しに会社に問い合わせてみた。翌日に返事が来た。

現在、数店舗にて色合いの違う看板等が採用されております。

なるほど。ならば自分で調べてみるしかないな。

さて、調査結果を先に言おう。パラレルワールドココカラファインは全部で9店舗残っていることがわかった。

 

9店舗にたどりつくためには、「現在のココカラファイン」が誕生するまで歴史をなぞる必要がある。この流れ、さっきと同じだ。

さらに深い話になるが、ぜひついてきてほしい。

 

いったんおさらいをしよう。

ココカラファイン1号店が開店したときの状態を復習だ。

2012年に旧ココカラファインの店舗が吉祥寺にはじめて生まれた。しかし、そのデザインは現在と違ったものだった。

では、ピンク色のココカラファインはどうやって生まれたのだろう

 

ココカラファインが再編成される(2013年4月)

吉祥寺南口店が生まれた翌年のことだ。ココカラファインに激震が走った。

今まで子会社でバラバラだった各薬局を全部一つの会社にまとめたのだ。こうして新会社「ココカラファイン ヘルスケア」が生まれた。

この変化にともなって生まれたのが現在のココカラファインのロゴだ。

会社の変更と同時に新たな方針が生まれた。現在の店を「ココカラファインブランドの店に変えていく」ということだ。

全薬局ココカラファイン計画。

本題に戻ろう。パラレルワールドココカラファインについて、こうは言えないだろうか。

ココカラファイン1号店が生まれた日」から「ココカラファインが再編成された日」の間に開店した「ココカラファイン」はデザインが今と違っているはずだ。

こんがらがってきたので図にしてみた。ちゃんと伝わっているだろうか。

 

パラレルワールドココカラファインは13店舗存在した!

ということで、2012年5月~2013年4月の間に開店したココカラファインを知りたい。が、どうやって調べればいいんだ。教えてグーグル先生!

グーグル「あいよ! これはどう?」

あるんかい。こういうときインターネットがある世界で良かったって思う。

で、調べてみた結果が先ほどの結果につながる。一覧にしてみた。

つまり、パラレルワールドココカラファインは13店舗あった。そして9か所は今も当時のまま残っている!

東の茨城から南の福岡まで、こんなに広い範囲で残っていたのか。

 

終わりに

2021年、ココカラファインマツモトキヨシが合併し、新たに「株式会社マツキヨココカラ&カンパニー」が誕生した。ただしブランドはそれぞれ別々のものを使っている。

この展開、ココカラファインの始まりと一緒だ。ということは、将来はまた「マツキヨココカラ」の実験店がどこかに生まれるかもしれない。

人は時間とともに変わっていく。街も変わっていく。そしてココカラファインも変わっていく。人生と同じだ。

だからこそ、そんな歴史の小さな一ページをここに残すことができて満足だ。

最近クローバーマークがあると目で追ってしまう。

 

さらに見つかってしまった

さあ、謎は解けた。満足しながら画像検索していたときのことだ。PCに向かっていて思わず「えっ」と声が出た。

別の「パラレルワールドココカラファイン」を見つけてしまった。

しかもオレンジ色だ。調べたところ、どうやら2012年11月には「ドラッグセガミ」からリニューアルしたっぽい。

つまり、「旧ココカラファイン」の新規開店と並行して、系列店の一部も「ココカラファイン」としてリニューアルしていたのか。

パラレルワールドココカラファインは13店舗より多かったのだ。

今のところわかっているのは「香里ケ丘店」「苅田店」「瓢箪山店」の三つだ。もし他にもあればぜひ教えてほしい。